マルコの福音書12章1-12節より
2021年1月31日主日礼拝メッセージ
イエスはユダヤの権威者たちに、たとえで話されます。
このたとえのぶどう園の主人は神、ぶどう園はイスラエルを表わしています。
神は農夫たちが働きやすく、利益を得やすいぶどう園を作られました。主人は旅に出かけ、ぶどうの経営、管理を任せます。神は人間を信頼して彼らの選ぶがままにされます。主人はしもべを失っても、幾度も農夫たちに彼らの負債を支払う機会を与えられます。
また、イエスはご自分がしもべではなく、主人の子、神の子であり、救い主メシヤであることを明らかにされます。そして不当に扱われ、殺されても、それで終わるのではなく、神の栄光が現されることもご存知でした。
農夫たちは、主人の遣わされたしもべ、また愛する主人の子を殺して、ぶどう園の所有者になろうとしました。それは主人が遠くにいて、自分たちのしたことが知られずに、彼の子が死んだことも知られないと考えたからです。
人間はこのような神の忍耐を利用して、神にそむき続けることができると考えています。これこそが人間の罪なのです。しかし神は生きておられます。最後は神の審判と当然の報いが必ず来ます。
イエスは人から捨てら、十字架で殺されました。しかし、神はイエスをそのままにされず、死からよみがえらされました。
建物で一番大切なのは土台である礎(いしずえ)です。イエスを通して教会が建てられ、信じる者に罪の赦しと聖霊が与えられます。
キリストこそが、すべての人に必要な命の礎(いしずえ)なのです。
このたとえを聞いてもユダヤ人は頑なに心を悔い改めませんでした。自分の罪を悔い改め、このイエスに救いを求める者は救われます。
アーメン