恐ろしい罪の現実を知ることなしに救いはない

創世記3章より

2021年8月29日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書は神に敵対し、人間を神に敵対させるサタン(悪魔)の存在を明らかにしています。

サタンは最初の人アダムに神を疑うように次のように誘惑しました。

①神を信じなくても生きられる ②この世に絶対的な権威はない ③神の言葉を自由に判断させ、選択権を人間に与えた

サタンの誘惑は誰もが怖がる大それたものではないのです。その過程において人は事の深刻さに気付きません。しかし後には必ず死の滅びがあります。今も昔も人は簡単に騙されるので、サタンは同じ戦略をあきもせず用いるのです。

アダムは禁じられた実を想像力と感覚に頼って見ました。創造主ではなく、被造物に耳を傾けて、神の言葉ではなく、自分の印象を頼りにしたのです。その結果、誘惑を退けることに失敗しました。

アダムの目は開き、自分の裸の恥を知りました。死とは神との関係の断絶です。神との交わりの栄光を失ったみじめな不安定な恥の自覚です。神の言葉に従わなかった罪責感でした。彼が得たのは神の知識ではなく、与えられた最善の環境を自らの罪によって台無しにしたことの知識でした。

神の戒めを破った瞬間からの恐るべき変化の自覚がありました。アダムは、以前の神との祝福を願うのが当然でした。神は「あなたはどこにいるのか」とアダムに回復を与えようと呼びかけます。

しかし、人間の頑固さ以上に、人間には罪の自覚も解決する力もないのです。人間はこの神の恵みの機会をまったくいかせないのです。サタンに敵対すべき人間が神と敵対しているのです。罪は敵意の対象さえ自ら変えることができないのです。

アダムは裸の恥を恐れますが。罪の結果を恐れるだけでは、悔い改めはありません。

神に背いたことを人は正直に答えなければなりません。アダムの選択は悔い改めではなく、刑罰を恐れた責任転嫁と逃避でした。

神から離れた人間は罪の恥を覆い隠そうとして生きています。しかし罪の恥を取り除くのは、神との交わりの回復以外にありません。人は神に対して罪を犯したのです。神の赦しが必要なのです。それ以外に罪責の重荷の解決はありません。

神は命の木を守るため人間をエデンの園から追放されました。神の御国には罪人の入る余地はまったく残されていません。しかし命の木が守られていることは、神との回復が人間に残されていることを意味します。 ここに聖書全体の神のさばきの厳しさとあわれみがあらわされています。イエス・キリストの十字架の贖いにより、罪を犯した人間への救済は成し遂げられたのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」


(ローマ人への手紙3章23-24節)

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