コリント人への手紙第一10章8-13節より
2022年9月18日
<聖書>
また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
(コリント人への手紙第一10章8-13節)
<説教>
パウロを通して、神さまが世の終わりに生きる私達への教訓が語られています。それは神の歴史の中で実際に起こった出来事です。
①姦淫(結婚以外のみだらな性行為)② 神を疑う事③ 神に不平不満を言う事
これはパウロが福音を宣べ伝えていながら、自分自身が失格者にならないために自分を打ちたたいて従わせていることです。
エジプトから救い出されたイスラエルはシティムの娘たちと、みだらな行為を行い、異国の神にいけにえを捧げ、拝むようになります。この手紙が書き送られたコリントの町(教会)は偶像礼拝はと不品行(結婚以外の性行為)が密接に関係していました。今の時代は、誰にでも性的な誘惑があります。神を認めないなら、簡単に罪意識さえ持たずに、性的な堕落に陥ります。性の問題は、道徳や倫理、安全衛生の問題ではなく信仰、宗教の問題なのです。
神の奇蹟により、紅海を渡ったイスラエルの民は、三日後に水が飲めず渇いて神を疑いつぶやきます。奇跡も肉の弱さに勝てません。
「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」
ヤコブの手紙1:6-8
神を信じても人間は信仰と不信仰の間を行ったり来たりしています。自分も神も信じ切れない人間の弱さがあります。しかし、そのことさえも信仰の道の途中にある証拠です。信仰は知識だけではありません。「少しも疑わずに、信じて願う」ことを実践して行うことです。
神は人間を祝福されようとしています。その神の恵みを受けないなら、人は不平不満をつぶやきます。しかし、神の恵みを体験せずに、一生つぶやき続けてはいけないのです。
試練とは誘惑の意味でもあります。試練はそれを通して、信仰が成長して、さらに神に信頼して頼るようにしてくださいます。しかし誘惑は、神を疑い、自分の方法でその問題を解決させようとします。自分の力を誇り神からは離れさせます。
人間が弱く愚かな存在であるという自覚は大切です。神はそんな弱い私たちに同情してくださいます。あなたの試練がどのようなものでも、それは決してあなただけの特別な試練ではありません。その試練の苦しみによって自分は特別でおかしいのかも知れないと思わないでいいのです。誰かも同じ試練にあり、罪以外の試みはイエス様も体験されたのです。その試練は無意味ではなく、いつまでも続きません。神自身が脱出の道です。イエス様が神であり、このお方を信じる者は、最大の試練の死から勝利します。イエス様がよみがえられた命があなたにも働かれます。いかなる試練も神の愛からあなたを引き離すものはありません。
しかし、あなたは試練、誘惑に負けそうになるかもしれません。もう負けていると感じるかも知れません。けれども、そんな中にあってイエス様はあなたを愛されています。あなたに力を与え守ってくださいます。罪を悔い改めるように導いて下さいます。信仰の結果である自制を与えてくださいます。
「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」
Ⅰペテロの手紙1:5-7