神の教会、召された聖徒

コリント人への手紙第一1章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2022年9月25日

<聖書>

(かみ)のみこころによってキリスト・イエスの使徒(しと)として()されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある(かみ)の教会へ。すなわち、私たちの(しゅ)イエス・キリストの御名(みな)を、(いた)る所で()び求めているすべての人々とともに、聖徒(せいと)として()され、キリスト・イエスにあって(せい)なるものとされた方々へ。(しゅ)は私たちの(しゅ)であるとともに、そのすべての人々の(しゅ)です。私たちの父なる(かみ)(しゅ)イエス・キリストから、(めぐ)みと平安(へいあん)があなたがたの上にありますように。

(コリント人への手紙第一1章1-3節)

<説教>

コリントは大都市(だいとし)マケドニアとアテネの間にあり、エーゲ海とアドリヤ海を(むす)貿易(ぼうえき)要衝(ようしょう)の地でもあり経済(けいざい)文化(ぶんか)がいちじるしく発達(はったつ)しました。いろんな人種(じんしゅ)の人が()()い、宗教(しゅうきょう)が多くあふれていました。その中でも、女神(めがみ)アフロディトを(まつ)るアクロ・コリントの山頂の神殿(しんでん)には1千人の巫女(みこ)(みや)(つか)えていましたが、彼女らは夜になると売春婦(ばいしゅんふ)として町に下るのでした。コリントの町は経済(けいざい)(てき)発展(はってん)宗教(しゅうきょう)(てき)混乱(こんらん)不道徳(ふどうとく)のつるぼでした。その当時、コリント人というと「堕落(だらく)した(けが)れた者」を意味しました。コリント人のようにふるまうとは、「みだらな行為(こうい)を行うこと」を意味しました。

そのような中でパウロが精力的(せいりょくてき)伝道(でんどう)した結果(けっか)、コリント教会(きょうかい)が建て上げられました。彼らはたかぶり、敵対(てきたい)して分派(ぶんぱ)をつくったり、不品行(ふひんこう)、みだらな行為(こうい)教会(きょうかい)内にも見られました。

しかし、パウロはコリント教会(きょうかい)(かみ)教会(きょうかい)()びます。教会(きょうかい)(かみ)によって()し出された者の集まりです。コリントの教会(きょうかい)がいかに不完全でどうしようもない者の集まりであっても、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)のあがないによって、(あら)われ、きよめられ、(かみ)()(あた)えられた者なのです。イエス・キリストを(しん)じて生きるにふさわしい者へとキリストの復活(ふっかつ)の命が(はたら)くのです。

キリストは十字架(じゅうじか)で私たちの(つみ)のために死んでくださいました。十字架(じゅうじか)はもっともひどい(つみ)を犯した罪人に課せられた刑罰です。あなたの(つみ)がどれだけひどくても、その(つみ)のためにキリストは十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

クリスチャンとは(つみ)の中から(かみ)によって()び出され、それに応答(おうとう)して、イエス・キリストを(つみ)からの(すく)(しゅ)(しん)じた者です。()(つみ)現実(げんじつ)から、(えら)ばれて分離(ぶんり)された者です。現実(げんじつ)の姿はまだ未完成(みかんせい)ですが、(しん)じる者に(はたら)聖霊(せいれい)により、日々、御子(みこ)イエス・キリストに()た者に変えられ(つづ)けています。

(かみ)を愛する人々、すなわち、(かみ)のご計画(けいかく)(したが)って()された人々のためには、(かみ)がすべてのことを(はたら)かせて(えき)としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、(かみ)は、あらかじめ知っておられる人々を、御子(みこ)のかたちと同じ姿にあらかじめ(さだ)められたからです。それは、御子(みこ)が多くの兄弟たちの中で長子(ちょうし)となられるためです。」

(ローマ人への手紙828-29節)

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