ニュートンは、りんごかが木から落ちるのを見て、地球に引力のあることを発見しました。では、この地球にはなぜ引力があるのでしょうか?
しかも、もしこれ以上引力が強かったら、私たちの体も何もかも、重くなって不自由です。また、もし地球の引力が今より少なかったり、なかったりしたら、みんなフワフワ浮き上がって困ります。
私たちの生活にちょうどよい引力、この不思議な引力が、なぜあるのかということは、どんな科学者にも解らないナゾです。
(「科学と人生」月岡世光氏より)
ニュートンは、りんごかが木から落ちるのを見て、地球に引力のあることを発見しました。では、この地球にはなぜ引力があるのでしょうか?
しかも、もしこれ以上引力が強かったら、私たちの体も何もかも、重くなって不自由です。また、もし地球の引力が今より少なかったり、なかったりしたら、みんなフワフワ浮き上がって困ります。
私たちの生活にちょうどよい引力、この不思議な引力が、なぜあるのかということは、どんな科学者にも解らないナゾです。
(「科学と人生」月岡世光氏より)
「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」詩篇103:8
口唇裂で生まれてきたある少女について、読んだことがあります。小学校に上がると、変形した鼻や割れた唇、歪んだ歯や不明瞭な発音をからかわれ、ひどくいじめられました。やがて彼女は、自分は誰にも好かれていないと思うようになりました。
二年生になると、子どもたちに大変人気のあるレナード先生が担任になりました。彼女は、ユーモアと愛情に溢れた明るい女性でした。この先生は、ある簡単なテストをして、子どもたちの聴力検査をしていました。生徒を教室の端に立たせると、反対側から小声で質問します。「あなたの靴は何色ですか。」または「ワンピースを持っていますか。」すると子どもが答えます。メアリーの番が来ました。彼女は、先生の声に聞き耳を立てます。すると、こう聞こえました。
「メアリーが私の子どもだったらうれしいのに。」
この一言が、メアリーの人生を決定的に変えました。自分の外見に関係なく、大好きな先生が自分を愛してくれている、と気づいたからです。
もし、あなたが「自分は価値のない人間だ」とか「自分などいてもいなくても同じだ」などと感じていたとしても、神は憐れみ深くあなたを受け入れ、心から愛しておられます(詩篇103:1-8)。そのような神の愛を知っていますか。(David Roper)
神の写真立てには、あなたの写真が入っている。
最も幸せな人とはどんな人でしょう。それは、神が創られた、あるがままの自分を受け入れて、自分が持っているものをよろこび、人がどう思うかを気にしすぎない人です。人の期待に合わせようと苦労していると、それがプレッシャーになりますが、ありのままの自分を謙虚に受け止めるなら解放感があります。
人に合わせようとしたり、良い印象を与えようとするあまり、自分以外の何かになろうと無理に努力するよりは、むしろ、ありのままの自分でいるだけの勇気を持っている人のことを、多くの人は、立派だと考えるのではないでしょうか。もちろん、そのような決断をする人は、孤独感や疎外感を味わうことがよくあります。これは悲しいことです。
若い頃、私は、自分の外見がイヤでした。鼻が大きすぎて、やせっぽちで醜いと思っていたので、劣等感のかたまりで、それを克服するのにかなりの年月を要しました。プライドが高かったし、人と自分を比べていたからです。しかし、大人になるにつれ、外見などそれほど大切でないことを悟りました。自分は神の望まれる通りに創られたのだとわかったのです。神は自分を愛しているから、このように創ってくださったのだと。
神は、神によって創られたままのあなたを愛していて、神の目にはあなたは美しいのです。誰もが、世界でたった一人の存在であって、特別です。神から見れば、外見がどんなであろうと、醜いものなどありません。
神とどのようなつながりを持っているかが、自信に関係してきます。神に近くなり、神と良い関係にあるなら、もっと自分に満足し、心安らぎ、幸せで、リラックスできることでしょう。神に近く生きようとしているなら、あなたはハンサム、または美人です。神の愛や光が自分を通して輝くからです。
祈って、自分について神がどう思っておられるかたずねてみてはどうでしょう。または、誰かに、神にたずねてもらうようお願いするのです。神の目に自分がどう映っているかや、自分の内なる美しさや強さは何なのか、また神はあなたの内でどんな才能や能力を伸ばしたいのかを。神から励ましの言葉をもらうならば、自分が世界にたった一人しかいない神の創造物であることを幸せに思うことでしょう。
聖書には「あなたはわが目に尊い」とあります。
神は、弱さや欠点もふくめて、ありのままのあなたを尊く思い、愛して下さっています。だからこそ、そのひとり子であるイエス・キリストを救い主としてあなたのために地上に送られました。イエスは、神からあなたへのプレゼントです。ただイエスを心に受け入れるならば、あなたは救われ、天国に行くことが約束されます。そして、イエスは永遠の友となって、あなたの人生を導いて下さるのです。次の祈りを祈って、あなたもイエスを心の中に受け入れて下さい。
「イエスさま、ありのままの私を受け入れて下さるあなたの愛を感謝します。あなたを心の中に受け入れます。どうぞ、あなたの愛で私の心を満たし、私の人生を導いて下さい。そして、私が他の人にもあなたの愛を分かち合うことができますように。 アーメン。」
ニュートンは、1725年にロンドンで生まれました。彼の父親は船乗りで、ほとんど家にいませんでした。子供たちを育てる責任は、敬虔で愛情深いクリスチャンの母親の肩にかかっていました。彼女はいつもジョンの手を取って、神の前にひざまずいて祈り、自分を主にささげるように導きました。そして彼に聖書を読み、賛美歌を暗誦することを教えました。彼が7歳の時、母親は過労と病気のために亡くなりました。そのような打撃によって、少年の心はかたくなになりました。11歳の時にいじめに遭い、学校を止め、父親について海へ出ました。彼は20年以上もの間、流浪の放浪者として過ごしました。初めは、船乗りの生活をしましたが、放蕩の生活、酒と賭け事の日々でした。彼は何度も福音を聞きました。それを聞くたびに、彼は愛する母親の顔と教えを思い出し、心が刺されました。しかし、彼は邪悪な生活から抜け出せませんでした。
その後、彼はアフリカに行って、奴隷貿易に携わりました。激しい喧嘩が起こり、その結果、今度は彼が奴隷として売られました。彼は苦しみ、悩みました。心の悩みと身体の苦しみから逃亡しましたが、彼を待ち受けていたのは、さらに多くの鞭打ちと投獄で、死ぬような思いをしました。幸いに父の友人であった親切な船長に助けられ、本国に帰ることになりました。しかし、その航海の途上、大西洋上で恐ろしい大暴風雨に巻き込まれ、浸水して、沈没するばかりでした。彼は必死に神のあわれみを求め、悔い改めて、信仰に立ち帰ったのです。
その後も彼の堕落の生活は改まらず、荒くれの奴隷船の船長にさえなっていましたが、やがて神の不思議な導きによって、クリスチャンの船長に出会い、母親から教えられた神に仕えるようになりました。
1754年、当時の有名な伝道者、ジョン・ウェスレーやホィットフィールドの指導を受け、彼も主の働きをするようになりました。彼はすばらしい語学力があり、ギリシャ語やへブル語を学び、神に大いに用いられました。
彼の墓碑には次のように刻まれています。
「ジョン・ニュートン、伝道者、かつては深き放蕩の限りを尽くした無神論者で、アフリカの奴隷貿易をした者が、主イエス・キリストの深き恵みによって赦され、救われ、生まれ変わり、神のしもべとして福音を宣べ伝える者となる
心地よいベッドは買えるが、安眠は買えない
食物は買えるが、食欲は買えない
家は買えるが、家庭は買えない
薬は買えるが、健康は買えない
楽しみは買えるが、幸福は買えない
お金があれば、何でも買えるわけではない
かつてイギリスで「お金とは何か」の定義を新聞で募集しました。その一等に当選した定義はこれです、「お金とは幸福のほかは何でも買うことができ、天国のほかはどこへでもいけるパスポートである」。お金は便利なものですが、勘違いしてはなりません。
「人の心には神以外のものでは埋め尽くすことのできない空洞がある」パスカル
イエス・キリストが与えてくださる救いは、無代価です。ただ信じれば、救われます。お金を出しても買うことはできないものです。しかし、安っぽい救いではありません。救いは、キリストの命の代価が支払われたので、信じるだけで得られるのです。プライスレスという英語があります。プライスは値段という意味であり、レスは打ち消しです。しかし、無価値なという意味ではありません。その反対です。貴重なという意味です。値段がつけられないほど尊いという意味なのです。神の救いもプライスレスです。キリストが十字架で命を投げ出して、救いの道を開いてくださったのです。
ひとりの伝道者がインドの老齢の真珠採りと親しくなりました。伝道者はイエス・キリストの救いを語りました。しかし、彼は、ヒンズー教では難行苦行しなければならないのに、信じて救われるのは簡単すぎると言いました。ある日、老人は彼に言いました、「明日、巡礼に出かけます。どうぞお別れにわたしの家に来て食事をしてくださいませんか」。食事が終わった時、隣の部屋から老人は小さな箱を持ってきました。そして伝道者に箱を渡しながら言いました、「本当に親切にしていただいたのに、キリストを信じないですみません。しかし、わたしの心からのお礼のしるしにこの真珠を差し上げます」。伝道者はふたを開けてみると、今まで見たこともない見事な真珠です。驚いて、「とんでもありません。これを買わせてください。数百ポンドの値打ちがあります」。
しかし、老人は激しく首を振りました。「わたしは売ろうとは思いません。この真珠は数千ポンドでもすぐ売れるでしょう。もし売れば金持ちになっていたでしょう。けれども売るつもりはありません。わたしには息子がいました。真珠採りでは町一番でした。ところが、ある日、この息子が水にもぐったまま上がってこなかったのです。長い間たって、息子は浮き上がってきました。そして、その時、息子はこの真珠をしっかり握りしめていたのです。この真珠はわたしの命なのです。これを売るわけにはいきません。ただ心からのお礼として受け取ってください」。
伝道者はもう何も言えませんでした。しかし、しばらくして口を開きました、「わかりました。喜んでいただきます。しかし、一つ考えてくださいませんか。神がそのひとり子イエス・キリストの命によって救ってくださるのに、わたしたちがそれを買うことができるでしょうか?」。真珠採りの老人は考え込みました。そしてやがて言いました、「わかりました。神の救いは買う事ができないのですね。ただ信じて救われたいと思います」。
出典:日本福音書房 「恵みのことば」第11号