すべてを覆(くつがえ)すキリストのよみがえり

マルコの福音書16章1-9節より

2021年7月11日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスは十字架で死んでしまいました。希望は去り、何もかも終わってしまった。マリヤたち女性が出来ることはイエスに油を塗り手厚く葬ることだけに思えました。

ここまでが人間が知り、行動できる領域です。大切なのはこの先にある人間の理解を超えた信仰の世界にあるのです。

空っぽの墓には御使いがいて、十字架につけられたイエスはよみがえられたと女性たちに告げます。思いもしない事の成り行きに女性たちは驚きます。そして恐れますが喜びます。

人間は「あやまちは取り返せない。罪は赦されず、後悔しても何も変わらない。未来に希望はなく、墓場ですべてが終わる。」と考えます。

この世界に本当の命も、本当の光もありません。なぜならこの世界は罪という現実があるからです。この罪の支配から人間は絶対に自由になることはできません。

しかし驚くべきことが起こりました。この罪の現実をキリストは打ち砕き、墓の中からよみがえられました。死に勝利されたのです。キリストを信じる者は、よみがえりのキリストの命につながり、罪から解放され、死はもはや力は何の力もありません。

罪の中に生きる者は死の滅びに敗北してしまいます。しかし罪の世に勝利する者とは、信仰によって、イエスを神であると信じる者だけだと聖書ははっきり言います。

この世界と同様に、人間の内にも罪と死の支配があります。思考も言葉も行いも、罪と死の法則にさらされていました。しかし、よみがえりのキリストの命をいただくなら、人間の内は罪と死の法則から、命と御霊の法則に変えられます。この変化は人間の努力や頑張りでは絶対に不可能です。神がキリストを通して信じる者に与える驚くべき御業です。

徳川家康のことを知っている人はたくさんいます。しかし徳川家康を知っている人はほとんどいません。私たちはキリストのことを知るのではなく、キリストを知るのです。キリストはよみがえられ、今生きて存在しておられます。このよみがえりのキリストと個人的な交わりを持つことが出来るのです。

信仰によって驚く体験、日々キリストとの新しい出会い、語りかけを受けることができるのです。この神との関係の回復こそがすべての人間に必要なのです。それこそがキリストの十字架の目的です。

キリストの死と葬りにより罪ある古い人は死ぬ

マルコの福音書15章42-47節より

2021年7月4日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

アリマタヤのヨセフは裕福で立派で正しい人で、神の国を待ち望んでいました。イエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していました。

しかし、十字架でイエスの死を目撃して、イエスの体の引き渡しをユダヤ総督ピラトに願い出ます。自分の身に危険が及ぶことも恐れないでヨセフはイエスのために行動したのです。かつての彼からは考えられません。十字架のイエスに出会ったなら人は必ず変えられるのです。

人の愛、大切な人の死によって人は生き方が変わるかも知れません。しかし、その人自身を内側から造り変えることができるのは神であるイエス・キリストだけです。

人間の生き方は2つしかありません。

①自分の欲を満たすために罪から離れずに生きる。②神を恐れて、悪から離れて生きる。

聖書は①を罪と言います。やりたいことを何でもすることが自由でしょうか。いいえ、本当の自由とはまことの神を信じて、聖書の言葉に従う生き方です。神から離れるなら人間は罪の奴隷となります。奴隷は自由ではありません。自由とはキリストを受け入れる信仰によって神から与えられる恵みのプレゼントなのです。

ヨセフは他の議員たちと同じようにではなく、イエスに対して自分のすべきことを行いました。それは、自分の罪と決別して、イエスに近づくことでした。ヨセフはイエスの十字架により自分の罪を知り、古い自分を十字架で埋葬して、信仰によって新しくされたのです。

ヨセフはイエスの体を洗い、清潔な亜麻布で包み、新しい墓にイエスを埋葬しました。ヨセフによってイエスは丁重に葬られました。ヨセフの迅速な行動によって、イエスの埋葬を安息日に入るまでに終えることができたのです。

すぐに、いかなる仕事もしてはならない安息日に入りました。前日の十字架の出来事は嘘みたいに静まり返ります。

しかし、この安息日こそが、神の救いのみわざの始まりです。それは、信じるすべての人を罪の束縛から解放するまことの安息です。人間を罪による死の滅びから救い出して、永遠の命を与える、ただひとつだけのキリストの救いです。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」

(ヨハネの福音書53章39-40節)

十字架の上の王、救い主キリストを見よ

マルコの福音書10章22-41節より

2020年6月27日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

血まみれのイエスは裸で十字架に付けられ、人々は無力なイエスの姿をあざけり、ののしります。罪状書きは「ユダヤの王」。

やがて全地は暗くなり、暗黒の罪の死の力がイエスを襲います。全人類の罪を身代わりを受けたイエスは父なる神との関係が絶たれ「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びます。しかし、そのまま死ぬのではなくご自身を罪のために捧げられ、「テテレスタイ(完了した)」と勝利の叫びをされ、ご自身の命である霊を父に渡されます。その時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けます。

家族に愛の関係があるなら子どもは悪の道に入りません。人は自分を愛してくれる場所が必要なのです。自分を認めてくれる場所を探すのです。それがたとえ悪とわかっていても。大切な関係から離れて罪に陥るのです。捧げられたイエスの肉体を通して神への生きた道が私たちに開かれたのです。あなたはイエスを通して神との関係が回復します。神があなたを愛して、あなたを認めてくださいます。

愛する人々や弟子たちから捨てられても、イエスに付き従った女性たちは最後まで十字架の証人となりました。彼女たちがイエスを愛していたからです。

幾度も十字架刑に立ち会ったローマの百人隊長は、イエスの刑が惨めに死に敗北していく今までの死刑囚と違うことに気付きます。十字架で死んでいくイエスに威厳と命があったのです。彼は「この方はまことに神の子であった」と告白します。

王と呼ばれる者は、戴冠式(たいかんしき)で王の冠を与えられる。その式は華やかで荘厳で格調高い。各国の王たち、ナポレオン、ジャンヌダルク…

神から遣わされたイエスは油注がれた、永遠の天の御国の王。罪人を新しく生まれさせる力ある救い主。十字架こそが主イエス・キリストの戴冠式(たいかんしき)であることを見出す者は幸いです。

昔から多くの芸術家たちは「十字架のキリスト」を作品のモチーフにしてきました。美術、彫刻、音楽、演劇など。人間は最高のモチーフに出会ったとき、魂が揺り動かされ、情熱が与えられ、最高の作品を生み出します。最高の人生が与えられるのです。

美術館で「エッケ・ホモ(見よ。この方だ)」という題のついた十字架のキリストの絵画を見た人物は、その絵に釘付けになり動けなくなりました。その絵の説明には次のように書かれていました。

「わたしはあなたのために命を捨てた。あなたは、わたしのために何をしたか」。その人物のその後の人生が変えられたのはいうまでもありません。

どんな時も、十字架に付けられたキリストを見続けましょう。

罪と誇りを捨ててキリストの十字架を負う

マルコの福音書15章16-21節より

2021年6月20日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスは十字架に付けられる前にむち打たれ、ローマの兵隊から暴力を受け、からかわれ、辱めをうけます。最も尊敬されるべき神様が、最も残酷な十字架で罪人として扱われ、殺されたのです。血まみれで傷だらけのお姿は誰もが顔をそむけるようでした。

人間は人前で恥をかくことを嫌います。恐れます。それは弱さやコンプレックスをからかわれたり、存在を無視されたり、勝負に負けることかも知れません。

いい暮らし、いい学校、いい会社をめざすのも、恥ずかしい生き方をしないためです。

しかし、恥ずかしいという思いは外見のことではなく、人間の内面から来ています。最初の人アダムが神に背いた時に、神から離れた罪深い恥ずかしい自分の姿を知ったことが原因です。彼はいちじくの葉を腰につけ、それを隠しました。

すべての人はいろんなプライドによって恥を隠そうとしたのです。しかし、それは問題の解決ではありません。恥は罪の負い目から来ています。罪を犯した神を恐れて隠れたことが原因です。その罪の解決のためにキリストは十字架で死んでくださいました。人には言えないどんな恥ずかしい姿もキリストはご存知で、そのありのままの自分を受け入れてくださっています。キリストに赦された自分を受け入れることによって、はじめて自分を愛するができるのです。ありのままの自分を生きていくことができるのです。

クレネ人シモンは、十字架に向かわれるキリストに出くわし、無理やりキリストの十字架を負わされます。なんということだと最初は嘆いたことでしょう。しかし、血まみれで傷ついて、耐えられるキリストのお姿を見ているうちに、重い十字架を背負わされている自分の苦しみよりも、キリストがまことの救い主であることを信じたことでしょう。人前で十字架を背負わされた恥ずかしい自分からキリストへと心が変えられたのです。

キリストの十字架はすべての人の罪の赦しです。その神の働きをクレネ人シモンは手伝うことができたのです。キリストの苦しみをわずかでも味わい、キリストの重荷を助けることができたのです。十字架がシモンとキリストをつなげてひとつにしたのです。

無視されたり、誰かに打ち負かされたり、プライドを傷つけられることがあっても、あなたのために十字架で苦しまれたキリストは、あなたのために満足され喜んだお姿だったのです。キリストはあなたが信じて救われることを心から願っているのです。キリストはあなたを愛されています。

「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

(ペテロの手紙第Ⅰ2章20-25節)

完全な正しさの基準は人間ではなく神にある

マルコの福音書15章1-15節より

2021年6月13日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人間の本質が正しいと考えるのはあまりにも楽観的すぎます。警察、法律を犯す者への罪の刑罰によって、現在の平和は守られていることも忘れてはいけません。聖書によるとすべての人間は罪人として生まれてきます。人間の中には絶対的な正しさはないのです。裁判でどれだけ時間をかけても正しい判決をくだすことが出来るとは限りません。2000年前にユダヤで開かれたイエスを訴えた裁判では、イエスをまことの神とは認めず、かえって神の名を汚したとして十字架刑が言い渡されました。わずか半日で判決が言い渡されました。

まことの神を恐れる心こそが、真実を告白する正しい生き方です。人間は神に造られた被造物です。神こそが人間の正しさの基準なのです。人を殺してはならないと神は十戒を通して命令しています。すべての人間はやがて来る終わりの日に最後の審判を受けます。あなたの人生のすべての行い、言葉、心の中のすべてを神はさばかれます。

偽証による不当な裁判によりイエスは十字架で死刑に定められます。イエスの十字架の苦しみの中に人間のおそるべき罪深さが現されています。神であるイエスが死んでくださる以外に人間の罪は赦されないのです。正しさも罪の赦しも人間の中にはありません。あなたの罪の救い主としてイエスを信じることを、神は聖書を通してあなたに教えています。

人殺しのバラバの命を助けるためにイエスは十字架で身代わりになりました。イエスは罪人を救い出すために死んでくださいました。罪人とはバラバであり、またあなたのことです。神に対して罪ある者として生まれ、罪人として生きてきたあなたの罪を赦すために、イエスはあなたの身代わりに罪の刑罰を受けられました。イエスを信じる者は罪赦され、イエスの命を受けて新しく生きることができます。その新しい命はイエスを模範として正しく生きる力です。

本当のあなたのことを一番知っているのは誰ですか

マルコの福音書14章65-72節

2021年6月6日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

あなたは自分のことをどれくらい知っていますか。人は次の3通りの自分として知られています。①あなたが知っている自分②ほかの人から見た自分③神様から見た自分

イエスの弟子のペテロは、どんなことあってもイエスに従ってお供できると自信を持っていました。自分の力、経験や感覚でやっていけると信じていました。

イエスが十字架で死なれるとしても、あなたを知らないなど決して言わないと自信をもって言いました。しかし、イエスは逮捕され、死刑にするための不公平な裁判にかけられ、群衆に囲まれリンチを受け、圧倒的に不利な状況になります。イエスの仲間と知られると逮捕され、殺される可能性もありました。

そんな中、ペテロはイエスを知らないと3度言い終わらないうちに鶏が鳴きます。イエスが「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われた言葉を思い出します。その時ペテロは自分の本当の姿を知ったのです。言葉だけで行いのない自分の信仰を知るのです。イエスを信じる信仰は頭の知識や努力ではなく、生きた経験なのです。失敗も敗北も惨めな経験もすべてが信仰生活であらわにされていいのです。そんな罪深い自分だからこそイエスが必要なのです。

ペテロはイエスと一緒に死ぬつもりでした。しかし、人は誰も神様のために死ぬことはできないのです。なぜなら、すべての人は神様に対して罪を犯して、死んだものだからです。ペテロのように自分を許せずに後悔して泣くだけではだめなのです。神様に対して罪を犯したこと心から悲しまなければならないのです。神様のことを信じられないという人は、本当の自分の罪深さを知らないからです。

人間は罪により、誰かを傷つけ、また誰かに傷付けられています。それは、人間が神様を傷つけることにより、自分自身を傷つけているからなのです。

イエスはあなたのすべてをご存知なので、あなたが罪を犯してしまった、どうしようもない理由もご存知です。あなたが神様は自分のことをすべてご存知であると信じた時、あなたの罪は赦されます。また、あなたの傷も癒されます。

仲の良い人間関係が壊れて無視し合うことほど悲しく不幸なことはありません。それは時に死ぬことよりも苦しいことです。事実、聖書は神様と人間の関係が壊れたことを罪と言います。人間の犯した罪は死んでも後も永遠に赦されません。しかし、キリストがあなたの罪の身代わりに十字架で死んでくださったことを信じるなら、あなたは永遠に続く罪の刑罰を赦され、永遠の命を受けます。

ペテロに罪の赦しを与えるために、イエスは三日目によみがえられました。「主よ、あなたは一切のことをご存知です。」とペテロと同じように告白する者は幸いです。

人間が神を殺すことは絶対にできない

マルコの福音書14章53-64節より

2021年5月30日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

ユダヤの指導者たちは、偽りの証言によりイエスを死刑にするために裁判にかけました。歴史の中で前代未聞の最もおろかな裁判が行われました。被造物であり有限である人間が、永遠の万物の主権者である神を裁いて、殺そうとしたのです。

イエスは権威ある神の言葉を話し、罪の赦しを与え、安息日に病を癒し、愛とあわれみをその言葉と行いであらわされ、ユダヤの宗教家たちの心の中にある偽善をするどい真理で示されました。彼らはねたみ、恐れ、かたくなさから、イエスが神に遣わされたことを受け入れません。かえってイエスを憎み、殺害しようとします。

人間でありながら、自分を神とした冒涜の罪により、イエスに死刑にします。人間はまことの神であるイエスを十字架で殺してしまったのです。しかし、誰も神であるイエスの命を取ることなどできません。イエスご自身が命の光なのです。イエスは命を捨てる権威と、命を得る権威があるのです。罪なきイエスだけが人間の罪のために、全人類の罪のために十字架で自ら命を捧げることができたのです。

神ははじめであり、終わりです。神は永遠に変わることはありません。イエスが人となってこの世界に来られたのは、すべての人が神の存在を知るためです。人間の側からはいくら努力して探しても神を見出すことはできません。イエス・キリストを通して、聖書を通して、神はご自身を明らかにされます。

神はイエスにより、人間に福音を与えてくださいます。福音とはよき知らせの意味で、キリストを信じることによって、罪赦されることです。福音はどんな頭のいい天才でも考え付かない神のみわざです。

信仰は知識に先立ちます。神を信じるとき、知識が信仰を支えてくれます。キリストはすべての人の罪の刑罰の身代わりのために十字架で死んでくださり、3日目によみがえられました。そして、今生きてはたらかれている真の神様です。信じる者は罪赦され、神と永遠の生きた交わりに入れられます。

神の定められた時に神の約束は必ず成る

マルコの福音書14章43-52節より

2021年5月23日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスの弟子であったユダは、群衆やローマ兵、役人たちの先頭に立って、イエスを裏切って逮捕しに来ます。ペテロはどうしていいかわからずに、剣を振り回して、敵の耳を切り落とします。神の言葉と神の時がわからない(信じられない)ならば人間は損得、自分の心の感情に従って、何を基準に生きていいのかわかりません。

イエスが予告した通り、罪人たちにイエスは渡され、弟子たちはイエスを残して逃げて行きます。聖書に書かれていることが成就するために、これらのことは起こりました。

聖書には天の下には何事にも定まった時があると書かれています。聖書に書かれている通りに神が定められた期間が満ちて、イエスは人としてこの世界に来られました。神の時が満ちて、イエスは宣教を開始されました。イエスは神の定められた時をご存知でした。ご自身が罪人たちに渡されて多くの苦しみに会われ十字架で処刑され、3日目によみがえられなければならないことをご存知でした。

神様の定められた約束を誰も変えることはできません。誰も神に逆らって生きることはできないのです。その神の言葉とは、すべての人は神の前に罪人として生まれ、罪の刑罰として永遠の死を受けなければならないことです。

しかし、イエスはその罪の刑罰を十字架で身代わりに受けてくださいました。自分の罪のためにイエスが死んでくださったことを信じるなら、あなたは罪の刑罰の死から救われ、無罪放免となります。自分の力ではどうすることもできない滅びから救われ自由とされるのです。神の約束は、神のことばを信じることによってだけ、変えることができるのです。

私たちはもし、あの時に戻ることができたら…、過去の過ちがなかったなら…、人生をやり直すことができたらと思うことがあるかもしれません。

多くは時間の経過と共に忘れられたり、諦めたりすることができるかも知れません。

イエスを信じるなら、時間を超えて、すべての罪は完全に赦されます。神はすべての罪を赦され、罪責感は完全に解決されます。キリストの十字架と復活の命を受けて、新しく生まれ変わって生きることができるのです。過去の後悔も、時間の束縛からも解放されて永遠の存在とされるのです。

忘れないでください。神はいかなる時も、あなたを愛してくださっています。

誘惑に打ち勝つ祈り

マルコの福音書14章26-42節より

2021年5月16日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

十字架を前にイエスは弟子たちは自分を見捨てて逃げてしまうと予告します。弟子のペテロは私は絶対そんなことはしないと強く言い張りました。

しかし、ペテロは3度もイエスを知らないと言い、イエスを裏切りました。

信仰とは自分を頼りにするのではなく、全面的に神様に信頼することです。聖書が神様の言葉であると信じて、聖書に従って日々生きることです。

イエスは全人類の罪のために十字架で死ぬことにより、父なる神様との関係が絶たれ、見捨てられることに、恐れもだえていました。イエスはひとりで祈ることをよしとされず弟子たちを連れて祈り、また自分が悲しみで死にそうだと打ち明けます。父なる神様にもこの十字架のときを過ぎ去らせてくださいと祈ります。

人間は問題から逃げること、罪に生きる安易な道を選びますが、それは一時的で何の解決にもなりません

自分の弱さを正直に神様に祈るとき、その弱さに神様が働かれます。自分の方法ではなく、神様にすべてゆだねるとき、問題の解決を超えた信仰の勝利が与えられます。神様に従うならば、その時は苦しくても、永遠の平安と喜びに必ず満たされます。

最大の誘惑とは神のことばに従わず、別の方法を選ぶことです。

イエスこそが、最も苦しい道を通られ、最大の誘惑にあわれ、恐ろしい死を経験されました。

しかし、神様にすべて信頼して従い、最大の苦難から最大の勝利を取られました。

本当の幸いな人生は問題から逃げるのではなく、神様に従うことです。自分を捨てるとき、イエス・キリストを得ます。

人間の裏切りはキリストの十字架を超えない

マルコの福音書14章18-25節より

2021年5月9日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

最後の晩餐で主イエスは、この中にわたしを裏切る者がいると言われました。誰ひとり、自分は神の前に正しいと言えるものはいません。

イスカリオテのユダはイエスの弟子でしたが、いつからかイエスの言葉に従わずに罪を繰り返すようになりました。ユダは自分の欲望に従い、救い主イエスがくださる希望を信じなくなったのです。これは神から離れたすべての人間の姿です。

罪は新たな罪に向かわせ、正常な感覚をまひさせ、次第に良心の呵責に応答できなくなります。そして、最後は何をしても満たされずに、神の救いのみ言葉から完全に離れて死の滅びに落ちます。結局、ユダは最愛の師、いえ神であるイエスを自分の欲望のために売り渡したのです。

ユダは主イエスを裏切りましたが、イエスを十字架につけたのはユダではありません。すべての人は神に対して罪があり、すべての人の罪の身代わりにイエスは十字架で死なれたのです。

裏切りは人間の罪の性質の現れです。「悪事をたくらむ者」「親に逆らう者」「わきまえのない者」「約束を破る者」「情け知らずの者」など、これらも神から離れた罪が原因です。

主イエスの十字架はユダのためであり、すべての人間のためなのです。罪が人間を苦しめ、不自由にさせ、まことに生きる道を見えなくしているのです。主イエスはすべての罪をその身に受け、信じる者に赦しを与える新しい契約のために血を流されました。

最後の晩餐で、すべてをご存知であるイエスはそれでも、ユダを自分の左の席につかせ、パンを浸して渡します。これは愛する友へのもてなしを意味します。イエスはどんな罪人をも愛され、神から離れた罪の道から、わたしのもとに来なさいと招いておられます。

ユダの運命は聖書のみ言葉の成就です。サタンがユダに入り、イエスの死の背景には悪魔的な力が働いていました。サタンの目的は神様の計画を妨げることです。

しかし、ユダの裏切りによって、キリストを十字架につけてサタンは神様のご計画を壊したのでしょうか。いいえ、キリストが十字架で死なれ、葬られ、3日後によみがえられたことによって、神様のご計画、すべての人間の罪の束縛から救い出す命を勝ち取ったのです。罪の結果である死の力を完全に無力にされたのです。

いかなる罪であってもキリストを信じて赦されない罪はありません。人間の罪はキリストの十字架を超えることはできないのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

(ローマ人への手紙5章8節)