最後の晩餐①~過越しの祭り

マルコの福音書14章12-17節より

2021年5月2日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

キリストは12人の弟子たちと過越しの食事をすることを前もって決めておられました。これはレオナルドダヴィンチの絵画でも有名な最後の晩餐です。

最後の晩餐が行われたのは過越しの祭りの時でした。

イスラエルの民は旧約聖書にある出エジプトという出来事をとても大切に覚えています。それは、かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民を彼らの神が救い出した出来事です。

この最後の晩餐をあらかじめ準備していた、主催者であるイエスこそが、このイスラエルの神なのです。神であるイエスが、過越しの子羊として、まことの出エジプトを完成させてくださるのです。

旧約時代から、人間の罪を代わりに受けるために、羊や牛が犠牲として殺され血を流し捧げられてきました。けれども、羊や牛の命は人間の罪をきよめることはできません。

しかし、神であるイエスが、ご自身の罪のない、きよい血によって、人間の罪の刑罰の身代わりとして、罪の代価を支払われたのです。それが、2000年前のゴルゴタの丘の十字架です。

最初の人アダムが神の命令に背いて罪を犯して以来、すべての人間には罪があります。その罪の刑罰は永遠の死です。全人格的に堕落した人間は自分で自分を救うことはできません。

神様は、聖いお方なので、罪の刑罰を何らかの形で満たさなければなりません。しかし、神様の愛はその刑罰をご自身のひとり子のキリストに負わせることでした。

最後の晩餐で、イエスは弟子たちの足を洗い、互いに愛し合うことを教えました。イエスは自分からすすんで、人間の命が滅びからの回復を喜んで、十字架に架かられました。

キリストが十字架で流された血は、人間の罪を完全にきよめて赦すことができます。人間のどうしようもない罪の性質を変える力があるのです。

新しい契約のために流された血なのです。そしてキリストは十字架で死なれ、葬られ、三日目に罪に打ち勝ち、死よりよみがえられたのです。

それは信じる者が、新しく生まれ、神の子どもとされ、新しい歩みをするためです。罪に打ち勝つ力を受け、内なる人が変えられ、よい愛の行いをする者とされます。

どこか遠い存在の神様が十字架に架かられたのではありません。あなたと喜びも悲しみも共にするまことの家族の関係をもち、共に食事をしたいと招いておられるのです。キリストを信じるあなたの罪を完全に赦し、キリストとあなたは一つとされて、神の救いは与えられるのです。

キリストに捧げるなら、あなたはいつまでもキリストの記念とされる

マルコの福音書13章28-37節より

2021年4月25日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

ユダヤの3大祭りのひとつの過越しの祭りが近づいていました。祭りには多くの巡礼者がエルサレムに集まります。人々がイエスの教えを信じることを恐れたユダヤの指導者たちは一刻も早くイエスをだまして捕まえて処刑しようとします。けれども民衆の騒ぎを恐れていました。自分たちに害が及ぶことを恐れていました。

それとは対照的に十字架で死ぬときが近づいたイエスはベタニヤでツァラアトにおかされたシモンの家にいました。ツァラアトの患者は汚れている者とされ誰も近づきませんでした。イエスのひとりひとりに接するご生涯の働きはすべて十字架に対しての愛の歩みでした。

イエスに罪赦されたひとりの女は高価な純粋なナルドの香油をイエスの頭に注ぎました。弟子のイスカリオテのユダは何のために300万もする香油をこんなに無駄にしたのかと女を責めます。

この女は自分の大切なものをイエス様に差し出しました。自分でも何をしているのかわからなかったかも知れません。しかし、イエス様は、「この女は、十字架で死ぬ私のために、油を塗って埋葬の準備をしてくれた。この女は立派なことをしたのです。」と言われます。

私たちが心から、大切なものをイエス様に捧げるとき、それをイエス様はこの上なく喜ばれます。それは、高価な物でなくてもよいのです。イエス様に捧げる心からの感謝の祈りや賛美かもしれません。他の誰かのために何かできることかも知れません。

心をイエス様に注ぎだして、自分自身をイエス様に用いていただくことです。それが礼拝です。それが罪赦された者の生きる姿です。

イエス様は、十字架で一番大切なご自身のきよい命を私たちのために差し出してくださいました。私たちが受けるべき罪の身代わりのために十字架で死んでくださったイエス様を、心から感謝して、信じて救いを受けることが何より、イエス様が喜んでくださることです。

過越しの祭りは旧約のユダヤの民がエジプトから救い出される夜、各家で雄羊の血によって、その家の長子の命が守られたことの記念です。イエス・キリストはまことの過越しの子羊として十字架で死んでくださったのです。

このお方によって、すべて信じる者は罪から救われ、永遠の命が与えられます。

イエス様を信じた者は、神様の子どもとされたことを記念としていつまでも覚えられるのです。あなたはイエス様にとって高価で尊い存在なのです。いつまでも永遠に決して忘れられることはありません。あなたは神様にとって記念すべき存在なのです。

古きは過ぎ去り新しくされる

マルコの福音書13章28-37節より

2021年4月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には終わりの時について、①その日は必ず来る②その日がいつかは父なる神以外は誰もわからないと書かれています。

この世界はすべて過ぎ去って滅びます。そして神が治める新しい完全な罪も悪もない世界に変えられます。生まれ持って罪がある人間はそのままで新天新地に入ることができません。天国に入るためにはキリストを信じて罪赦されて新しく変えられなければなりません。それは今現在の生き方につながっています。世に流されずに、キリストを信じて喜びと希望もつ歩みです。罪赦された者として、キリストに似た者に変えられる歩みです。

この世の終わりには間違った教えや、にせものや悪がはびこります。それらに惑わさないように目を覚ましていなければなりません。目を覚ますとはイエス・キリストから目を離さないことです。いつも、心の中にいるキリストを覚えることです。聖書の言葉に従って生きることです。キリストを愛することです。その時、自分を愛して、他の人を愛する豊かな命を生きることができます。

この世の教えは魅力的に見えますが、一時の流行りで何の力もありません。人間を罪から救う力はありません。罪から救われなければ、以前として罪の奴隷状態で現実は何も変わらず、死んだ後、永遠の滅びに入れられます。

聖書だけが、あなたにまことの知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。

キリストは人間の罪の結果である罪の刑罰を十字架で受け、三日目に死と罪からよみがえられました。そして、あなたのために、悪から守られ、きよめられ、神の愛から離れないように天で祈っておられます。

このキリストの十字架をあなたが自分のこととして、受け入れるならあなたは罪から解放され、新しい命が与えられます。あなたの霊は生きています。

キリストを神の御子と信じる者は、この罪の支配する世の中にあっても勝利者です。

罪に打ち勝つ力が与えられています。死によって滅びない永遠の命が与えられています。キリストに愛を受けて、愛をあらわす者に変えられました。

どのような人生を迎えたとしても、神はあなたの労苦を覚えて、終わりの日に、報いて救ってくださいます。

キリストはすべての人の完全なさばきを行うために必ず来られます。すべての人はこのことを厳粛に受け止め、自分の罪を悔い改めて、キリストによる救いを受けることが必要です。

それが十字架で死なれたキリストの愛に応えることです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3章16節)

終末に明らかにされる本物と偽物

マルコの福音書13章14-27節より

2021年4月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

オリーブ山で弟子たちに話したキリストの終末預言の一部は紀元70年にエルサレム神殿の滅亡で成就しました。飢餓とローマ軍の攻撃によるエルサレムの最後は歴史に残る悲惨な出来事でした。しかし、終末はそれとは比べることができない、天地創造から今までなかったような大患難時代が訪れます。終末で苦しむ人たちが救いを求めることを利用して、偽物の救世主(キリスト)がたくさん現れます。

「この世と世の欲はすべて滅び去ります」と聖書は言います。この世を愛し執着するなら、一番大切な霊の命を失います。この世はきらびやかな偽物をちらつかせて、死を忘れさせたり、死を美化して、恐るべき死の正体である永遠の滅び(刑罰)に陥れようとしています。

死は神に対してすべての人が犯した罪の刑罰です。永遠に続く終わらない苦しみです。キリストは人間を滅びの淵から救い出すために、十字架で死なれ、罪と死に打ち勝ちよみがえられたのです。聖書は過去の事実だけでなく、これから起こることを信じることも大切です。

キリストは必ずもう一度、この地上に来られることを忘れてはなりません。キリストが来られる時は、すべての人にはっきりとわかります。神に対する生き方をはっきりさせる時が来るのです。気づかずにすまされる人は一人もいません。

その時には、すべての人が自分の罪を赦してくださいとキリストにすがります。しかし、その時ではもう遅いのです。

完全な審判者である神のキリストを見たなら、いかなる人も神を信じるのです。それは信仰ではないのです。罪の悔い改めではないのです。神は信仰を喜ばれます。

聖書のみことばの約束により、信仰により、自分が神の前に罪人であり、キリストが救い主であることを信じることが救いなのです。

終わりのさばきで、地上の生きている人も、死んでしまった人もすべての人間がさばかれます。永遠の天の御国に入るか、永遠の滅びに落ちるか、その判断は生きている間に、キリストを自分の罪からの救い主として信じたかどうかだけです。

聖書の始まりは神が天地を創造されたこと。聖書の最後は神であるキリストがもう一度、この世に来られること。そして、このキリストを信じてすべての人が祝福されることを神は望んでおられますと言って聖書は終わります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3章16節)

キリストのよみがえりは死に打ち勝つ真の希望

コリント人への手紙第一15章12-22節より

2021年4月4日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

今、世界を支配しているのは死です。いかなる権力者も、お金持ちも、有名人も善人も極悪人も必ず死んでいきます。死の前にすべての人はのみ込まれていくのです。だったら、生きている間に出来るだけ楽しもうという風潮があります。富と快楽を求める虚しい人生です。人間の人生とはその程度なのでしょうか。神がいない人生は虚しく退屈で希望がありません。生まれた意味も、人生の目的もありません。
すべてを虚しくする死からの救いのために宗教と呼ばれるものたくさんあります。
そのほとんどは人間がつくった神や宗教です。それらの教祖や代表は人間です。その教祖はいつか必ず死んでいきます。死の前に無力な人間がつくった宗教には死からの救いはありません。
しかし、真実がひとつだけあります。人間を創ったまことの神を聖書は紹介しています。その中にキリストの十字架の死と復活がはっきりと書かれています。それは、キリストの生涯の中で、聖書の中で、歴史の中で最も重要な出来事なのです。
最初の人アダムを通して、全世界に罪と死が入りました。すべての人間は罪をもって生まれてきます。罪はこの世と人の現実です。罪によって神と断絶した状態を霊的な死と言います。神を無視して、神から離れて生きるなら、人間は自己中心、心のまま、欲望のまま生きることになります。その最後は永遠の死と呼ばれ、神と永遠に断絶され、永遠に滅びの中に放り込まれます。
しかし、神であるキリストが人間の受けるべき罪の刑罰を十字架の上で受けられました。それだけでなく、三日目に罪と死に打ち勝ち、よみがえられたのです。そのよみがえりの命に死は意味をなしません。この瞬間に世界は死の支配から、キリストの命という希望が誕生したのです。
キリストの死と復活が、自分の罪のためであると信じて、自己中心の生き方から神に方向転換して生きると望むなら、あなたは死んでも、よみがえり、永遠に生きます。
すべての人間はキリストを信じて救われなければなりません。神に愛されて大切な命を受けた者が、永遠に地獄で苦しみ続けて滅んではいけないのです。
あなたは神様に目的をもって今生かされています。それは死んで、もともと存在しなかったように消えて忘れ去られるのではありません。永遠に神と共に罪も死もない完全な天国を生きていくのです。キリストの十字架はあなたのためなのです。その永遠につながる今の時を生きることが希望です。
ぜひ、このイースター(復活祭)にキリストをあなたの救い主として信じましょう。

確実に近づく世の終わり。信じて救われよ

マルコの福音書13章1-13節より

2021年3月28日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

この世界はいつまでも続きません。必ず終わりが来ます。それは確実に近づいています。
聖書には世の終わりの前兆として、キリストを名乗る偽者が現れると書いています。また、戦争、地震や飢饉の自然災害についても書かれています。不法のため人々の愛が冷めるともあります。
この世にまどわれてはいけません。唯一、聖書だけがこの最後のときをどう生きるべきか教えています。
終末はすでに始まっています。そして、キリストがすべての人にわかるように現れ、キリストを信じる者は救われ、すべての死人がよみがえり、最後の審判が行われます。それはすべての人の生きている間の言葉と行い態度のすべてが神様の前で完全に正しく裁きです。
この世の最後はすべての者が滅ぼしつくされるのではありません。キリストを信じて罪の赦しを受けた者は、永遠の命を受け救われ、キリストを信じなかった者は、永遠の滅びに入れられます。
またキリスト者も世の終わりに向けて迫害にあいます。しかし、それはキリストの救いを人々に伝えるためなのです。
世の終わりは、出産に例えられます。終末の前兆は陣痛のはじまりです。しかし、出産の苦しみは、後に訪れる新しい命の誕生によって喜びに変わります。
この世の終わりの苦しみも、やがて、この地上に到来する新天新地に迎えられる希望に変えられます。
今の世界は罪と死の支配で理不尽です。しかし、天国はキリストにより、罪も悪も死も存在しない、完全な神様の支配される世界です。死も苦しみも涙も叫びもない、永遠に幸福と平和が続くのです。いえ、そんな言葉で言い表せない栄光の輝きです。
キリストを信じるなら終末を恐れることはありません。またあなた一人ではありません。教会の兄弟姉妹、またキリストを信じて生きた人々、そしてイエス様があなたを天の御国に入る日まで共にいて守っていくださいます。
そのためにまずイエス・キリストをあなたの罪からの救い主と信じることです。
神のことば、聖書の約束の希望をしっかり握って生きていこうではありませんか。

キリストに捧げる人生

マルコの福音書12章41-44節より

2021年3月21日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

金持ちたちは有り余る中から献金箱に大金を投げ入れましたが、貧しいやもめは、少ない金額でもすべてを捧げました。イエスはこのやもめは献金箱に投げ入れた誰よりも多く捧げたと言われました。
いくら捧げるかよりも、どれだけ犠牲を払って、神様に捧げるかが大切です。有り余った中から捧げるものを神様は決して喜ばれません。どれだけ上質で大切なものを捧げたのかで、神様に対する真実な心が現れるのです。
この貧しいやもめは、明日の心配をしていませんでした。すべて神様にお委ねしていました。お金よりも神様を信頼していました。
この世で、お金はどれくらい頼りになるでしょうか。いくら財産を蓄えても、完全に安心することはできません。お金でその価値以上のものを手にいれることはできません。しかし、神様にお金を捧げるなら、その価値以上の祝福を受けます。
お金だけでなく、時間や、仕事も生活も、人生を神様に対して捧げて生きるなら、私たちの人生は、私たちの考えをはるかに超えた神様の素晴らしいご計画の中にあります。
また聖書は言います。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」 (マタイの福音書16章26節)

いくらお金を払っても、永遠の死から救われません。罪の刑罰は永遠の滅びです。
キリストが十字架で死なれ高価な代価が払われました。それは私たちを滅びの淵から、命を救い出すためです。お金の価値基準は、このキリストの支払われた犠牲にこそあるのです。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
(コリント人への手紙第二8章9節)

神様はキリストの罪なき聖い命を差し出されました。それはすべての罪人を救うためです。キリストの十字架を信じて罪赦されて、永遠の命を受けた者は、自分の大切なものを喜んで、神様のために差し出すことができるのです。これこそ、まことの自由です。まことの豊かさです。アーメン。

キリストの死と命により始まる新しい歩み

ローマ人への手紙6章4-11節より

2021年3月14日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

眠っている人に大切なことを伝えようとしても無理です。目を覚ますまで待たなければなりません。神様も私たちにとても大切な話をしたいのに、神様から見ると私たちは眠っているどころか、死んでいるというのです。

それが罪に中にある人間の姿なのです。神様のことがまったくわからない状態、性質を罪と言います。すべての人間はこの罪の性質を持って生まれてきます。

罪ある人間の神様とは自分です。人生を自分のためだけに生きて、自分の心の思うままに、神様がどんな時も心の中まですべてご存知であることがわからずに好きなように神に対して悪を行っているのです。

人間の中に罪が住んでいて、善いとわかっていることがなかなかできません。その人生の結末は永遠の滅びです。

しかし、神様は神様に立ち返る人間を知っておられます。そして、その人が気づかなくても、神様はその人に働きかけます。やがて、その人は自分の罪深さを知り、神様がいない人生の虚しさや、神様が人生の問題を解決してくださることがわかります。

自分の罪を心から悔いて、キリストの十字架の死が自分の罪の身代わりであると信じる者は、古い罪の自我が死んで、キリストのよみがえりによる新しく霊的に誕生します。この時、死んでいた神様との関係の命を回復して、全人格が新しく造り変えられ始めます。

神様はご自身の言葉によってこの天地を創造されました。神様の御言葉を信じる者は新しく創造されるのです。神様に対して死んでいたあなたが新しく生まれることは、この天地を創造する以上の出来事なのです。あなたの存在は、この宇宙世界と比べることができない高価で尊い命なのです。

そのために、あなたがキリストを信じる前から、キリストは十字架で死なれ、あなたを愛されています。

この愛を受け、罪ゆるされるために、キリストをあなたの罪からの救い主として個人的に受け入れることが必要です。あなたの人生にキリストをお迎えしましょう。アーメン。

キリストに愛された者は神の言葉に従う

マルコの福音書12章38-40節より

2021年3月7日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

神の言葉を教える律法学者にイエスは厳しく警告します。彼らの生き方は自分の見栄を求めて、外見だけ神様に仕えていました。弱い者を救うべき神様の教えを逆手にとり、やもめ(未亡人)から金銭を巻き上げたりもしていました。神のことばを知っていても、神さまを侮っていました。神様の教えで、一番大切な愛をおろそかにしていました。愛とは仕えることです。彼らは神様のことばに仕えていませんでした。神様のことばを知ることは、同時に神のことばに従うことです。自分の人生の中で、日々の生活の中で、実際に神のことばを実行することです。

信仰生活は、単に規律を守ることではありません。あいさつしない人に、あいさつしなさいと叱ることと同じです。本来、あいさつは言われてするものではなく、自分の内からあいさつすることに意味があるのです。

しつけや教育、道徳では、人間の態度を変えることができても、その態度に至る心の中を変えることはできません。

それが人間の罪の性質です。キリストは罪から解放して、きよい命に変えてくださいます。自分の罪のために十字架で死なれたイエス様に自分愛されていることを知り、イエス様を愛して、神様のことばに従って、生きていきたい者とされます。愛は人を変えます。人間の愛でもそうなら、神様の愛はあなたを必ず変えてくださいます。

イエス様を信じて愛して生きる者は、イエス様に似た者に変えられていきます。人間は愛して大切にしている者に似ていくのです。

ですから、何に従っていくのか、何に仕えるのかは人生を決定するのです。

礼拝すべき創造主である神様を礼拝せず、他のものを神様よりも大切にして崇拝するなら、人生のあらゆる関係は狂いが生じます。

キリストは私たちと神様との関係を回復して、私たちが神様に対して信仰によって従順になるために来られたのです。どんな時も神様があなたと共にいて、この世の喜びや感情よりも、神様との関係を喜んで生きるためなのです。

その時、あなたはこの世の誇りで外見を装わなくても、内におられるキリストがあなたの輝きとなります。

アーメン。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

(コリント人への手紙第Ⅱ4章16節)

イエス・キリストは私の主、救い主

マルコの福音書12章35-37節より

2021年2月28日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

ユダヤの指導者は、キリストをダビデの子と考えていました。ダビデとはイスラエルの王様で、ユダヤの国を統一して、黄金時代を築いた英雄的な存在でした。

ダビデはキリストを表わす預言的な存在です。彼はたくさんの詩篇を書きました。その多くがキリストによって成就したのです。

その中の一つがダビデの家系から、まことの王である救い主キリストが生まれる、です。キリストとは油注がれた王の意味です。イエス・キリストは父なる神様によって油注がれた、まことのさばきと審判をされる王の王である神の子です。ダビデの子である以上に、すべての人にとっての罪からの救い主なのです。

ダビデの子とは、イスラエルを統一して治めた征服者としてのイメージが含まれています。当時のユダヤはローマの支配にあり、政治的な支配者としての力ある王を人々は待ち望んでいました。

しかし、キリストは神の愛を表わされるためのメシヤ、救い主なのです。神の聖さ、正しさ、愛によるご支配である霊的な神の国を、この地上において、永遠にもたらされる、救いの完成者なのです。

ダビデの書いた詩篇の多くが悲しみ、苦悩でした。キリストはダビデの言葉や人生を通して、ご自身を現されました。苦しみと絶望の中で神様を信じて助けを求めたダビデの叫びを詩篇を通して、キリストの十字架の死の苦しみが成就したのです。そこから救い出されたダビデの感謝と賛美は、イエス・キリストを自分の救い主として罪から救われたすべてのキリスト者の証です。

キリストの弟子であるペテロは、イエス様は生ける神の御子である救い主キリストですと告白しました。それに対して、イエス様は、ペテロにそう告白させたのは天の神様ですと言われました。

神の言葉、聖書は、ダビデやペテロについて書かれた言葉であると同時に、自分のために語られた言葉であることをぜひ覚えてください。神様を信じて、求めるなら、神様がそのことをあなたの知性と心を開いて教えてくださいます。

聖書の言葉が、イエス・キリストの罪の救いをあなたに与えてくださいます。アーメン。