神は愛。愛は十字架のキリスト

マルコの福音書12章28-34節より

2021年2月21日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書の専門家である律法学者がイエスに一番大切な神の教えは何か質問します。神を愛すること、あなたの隣人を愛することが最も大切であるとイエスは答えます。

この教えは、もともとは、旧約聖書でイエスラエルの民が約束の地カナンに入るときに、異国の神を拝んだり、異邦のならわしに誘惑されないように、神が与えた規定でした。エジプトの国、奴隷の家から、イエスラエルの民を救い出した神を決して忘れずに愛することが最も大切な教えなのです。

イエスはこの神を愛することと、人を愛することはひとつだと言われました。イエスの教え、それはあなたがたは互いに愛し合いなさいです。

生まれもった人間に愛はありません。人間の愛は自分を愛してくれた人を愛する愛です。不完全、不十分な愛です。見返りを求めたり、打算的な愛なのです。それは愛ではありません。

聖書にあるもっとも大きな真理は神は愛だということです。愛は神からくるのです。すべての人間は神を捨て、神にそむき、神を無視して生きてきました。神の愛を知らずにいました。

神はキリストを通して、ご自身の愛を現されました。もっとも大切な神のひとり子を、人間の罪のために十字架につけられたのです。ここに愛があるのです。あなたを罪の奴隷状態から救い出すために、キリストが十字架で死なれました。この事実を知るならば、あなたは神を愛して、また、あなたと同じように神が愛された隣人を愛する者に変えられます。神を知る前、キリストを救い主と信じる前、私たちは人間の愛を求めて生きていました。しかし、すべての人に必要なものは、神の愛です。キリストがあなたの罪を身代わりに受けるために十字架で死なれ、よみがえられた愛です。

それは私たちが、何か価値があったからではありません。神の本質が愛であるからです。神の愛はアガペーの愛、無条件の愛なのです。

このキリストの愛に触れた者は、はじめて人を愛せるようになります。人間は愛する者に似ていきます。信じているものに自分も変えられていきます。

人間は神に似せて創造されました。よい行いをする神の作品として命を与えられたのです。それは神の愛を受けて、自分を愛するように隣人を愛することです。

人間は絶対に愛が必要です。愛なしに人間は成長できません。愛なしに何を手に入れても満足することはできません。キリストはあなたを愛されています。

愛するとき、人間はもっとも神に近い姿なのです。

キリストを信じて生きるならば、あなたの内側に愛が溢れてきます。あなたは神を愛し、自分を愛し、他者を愛する素晴らしい日々に変えられます。アーメン。

聖書と神の力を信じる

マルコの福音書12章18-27節より

2021年2月14日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

多くの現代人のようにサドカイ派の人たちは、死者の復活を信じていませんでした。彼らは聖書の一部(旧約聖書のモーセ五書)しか信じなかったからです。聖書はすべて間違いのない神の言葉として、素直に信じることが大切です。

あなたの人生の一日が作られる前に、神はあなたの人生のすべてを命の書に記されました。あなたは神の中に生き、動き、存在しています。たとえ死んでも、神は終わりのときにあなたをよみがらされます。

キリスト信仰の中心の柱は復活です。復活のないところに希望はありません。死者の復活は、地上の体ではなく、新しく変えられた天上の体です。卑しい体が栄光の体に変えられるのです。

この世は復活に満ちているのです。冬、それは死んだように凍りついた世界です。しかし、命の躍動にあふれ、暖かく、やさしい春がきます。ヤゴはくろっぽく飾り気のない姿です。しかし、時が満ちると、ほとんど一目につかない場所、時間に羽化してトンボに変身して、広い大空を自由に飛んでいきます。小さな死んだような種の中に命があり、根から発芽して、葉をつけ、美しい花が咲き、美味しい実をつけます。

この地上の知識はごく一部に過ぎません。説明できない神の領域があり、人間の知恵により神を知ることはできません。この世の知識や知恵は人間を罪から救うことはできません。人間の知恵のはじめは神を恐れ、悪から離れることなのです。

多くの人は聖書の存在は知っています。聖書は高い道徳や倫理的を教えるためでありません。それはキリストを信じた結果として変えられ与えられる祝福です。

聖書は神の言葉であって、霊的に死んでしまった人間に新しい命を与える力なのです。あなたに命を与えた神との関係を回復する力です。

聖書はあなたに知恵を与え、キリストに対する信仰を与え、あなたに救いを与えることができるのです。アーメン。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3章16節)

神に返すべきもの

マルコの福音書12章13-17節より

2021年2月7日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

ユダヤ人は神に選ばれた約束の民で、律法を受け、救いが与えられ、ささげものや供え物をしていましたので、パリサイ派のユダヤ人はローマ政府に税金を納める必要はないと考えました。

一方、ヘロデ党と呼ばれるユダヤ人の一派はヘロデ王家の再興のために、ローマに積極的に協力して、納税を勧めました。

この、パリサイ派とヘロデ党の者たちが手を組んでイエスに罠にかけようと質問しました。ローマ皇帝カイザルに税金を納めるべきか、納めるべきでないか…。どう答えても、どちらかが納得しません。しかし、イエスは彼らの心の魂胆を見抜くお方です。神の言葉は、私たちの心を判別して、様々な図りごとを明らかにするのです。聖書こそが、私たちの心を照らし明らかにします。

私たちは国家に税金を納め、安全と秩序が守られています。水道や電気、交通機関や福祉、医療などを受けることができます。

しかし、国の指導者も権力者も、すべての権威は神様によって立てられているのです。

私たちは、この神様により、地上のあらゆる権威に従わなければなりません。そして、すべての権威の上におられる神様に従うことが人間に必要な生き方なのです。

あなたの親はあなたに何を一番望んでいるでしょうか。お金や家でしょうか。いいえ、親がのぞんでいることは、親子の温かい正直なつながり、いたわり合う愛、子どもが親を尊重してくれることではないでしょうか。

神様が求めていることも、同じです。神様があなたを創られ命を与え、仕事ができる健康と力を与え、今あるすべての環境も神様があなたに与えられたのです。あなたの時間やお金や健康は自分だけのためのものではありません。すべて一時的にあなたに管理を任されたものなのです。

あなたのためにすべてを与えてくださった神様に対して、人間は返すべきものがあるのです。

それは、神様に心を向けて、神様の言葉を信じて生きることです。教会で礼拝を捧げることです。喜んで神様に向かって賛美を捧げることです。

しかし、罪によって人間は神との関係が絶たれた状態です。神はご自身のひとり子を十字架につけ、その罪の解決を信じる者に与えられました。

イエス・キリストを信じて、罪の赦しを受け、神様にあなたの人生をおゆだねしましょう。アーメン

キリストは、すべての人に必要な命の礎(いしずえ)

マルコの福音書12章1-12節より

2021年1月31日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスはユダヤの権威者たちに、たとえで話されます。

このたとえのぶどう園の主人は神、ぶどう園はイスラエルを表わしています。

神は農夫たちが働きやすく、利益を得やすいぶどう園を作られました。主人は旅に出かけ、ぶどうの経営、管理を任せます。神は人間を信頼して彼らの選ぶがままにされます。主人はしもべを失っても、幾度も農夫たちに彼らの負債を支払う機会を与えられます。

また、イエスはご自分がしもべではなく、主人の子、神の子であり、救い主メシヤであることを明らかにされます。そして不当に扱われ、殺されても、それで終わるのではなく、神の栄光が現されることもご存知でした。

農夫たちは、主人の遣わされたしもべ、また愛する主人の子を殺して、ぶどう園の所有者になろうとしました。それは主人が遠くにいて、自分たちのしたことが知られずに、彼の子が死んだことも知られないと考えたからです。

人間はこのような神の忍耐を利用して、神にそむき続けることができると考えています。これこそが人間の罪なのです。しかし神は生きておられます。最後は神の審判と当然の報いが必ず来ます。

イエスは人から捨てら、十字架で殺されました。しかし、神はイエスをそのままにされず、死からよみがえらされました。

建物で一番大切なのは土台である礎(いしずえ)です。イエスを通して教会が建てられ、信じる者に罪の赦しと聖霊が与えられます。

キリストこそが、すべての人に必要な命の礎(いしずえ)なのです。

このたとえを聞いてもユダヤ人は頑なに心を悔い改めませんでした。自分の罪を悔い改め、このイエスに救いを求める者は救われます。

アーメン

神を信じて生きるために、キリストに近付こう

マルコの福音書11章27-33節より

2021年1月24日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

祭司長、律法学者、長老はユダヤ教の権威をもっていました。

イエスが何の権威によって、神殿の商売人たちを追い出したのかを攻め立てます。

イエスがもつ権威はすべての支配と権威のかしらです。

イエスは命の所有者。罪をゆるされる方。サタンから解放してくださるお方。キリストを信じる者を選ばれる方。罪をさばくお方。真理を教えてくださるお方。

聖書は神の啓示された言葉です。聖書を調べても、キリストは神だと信じないユダヤ人がいました。彼らは預言者ヨハネが神から遣わされたことを信じませんでした。

キリストの言葉を信じず、真理を受け入れませんでした。群衆の反応を恐れ、自分たちの立場を守ることだけを考えていました。

神の言葉、真理に向き合おうとしないならば、こじつけや間違った理解が正されず、そのうちに無力な生き方になってしまいます。恐れはいつまでも消えず、「わかりません」と弱弱しい言葉しか言えなくなってしまいます。

今の世は、神を信じない無神論的な生き方が多く見られます。進化論はその代表的なものです。無機物が長い年月をかけて進化して人間が偶然にサルから生まれたと考えるなら、あなたが生まれた意味や、人生の目的は何もありません。

何もかも偶然で、人間も人生も自然も無意味でしかありません。神がいないなら、何もかも虚しいのです。

しかし、人間の存在の意味は神によって与えられるのです。

天地万物をつくられた創造者のまことの神様が、あなたを愛し目的をもって、あなたはこの世界に生まれのです。あなたは神様の目に高価で大切な尊い存在なのです。

この神様を信じて生きるのと、そうでないのでは人生はまったく違うものになります。無神論の人生の選択はないのです。聖書の神様を信じることが必要なのです。

ただひとつ、この神様を信じて、生きるためには、神様に対しての罪を赦していただく必要があります。

キリストがあなたの罪の身代わりに十字架で死なれたことを、あなたが信じるなら、神様はあなたの罪を赦し、ご自身の子どもとしてくださいます。

キリストを救い主として信じて、あなたの素晴らしい人生を生きることを心からお祈りしています。

アーメン

祈りにより山は動く

マルコの福音書11章20-25節より

2021年1月17日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様の言葉により、いちじくが根元まで枯れたことにペテロは驚きます。

この機会を通して、イエス様は祈りの重要性を教えられました。

祈りは長さでも形式でもありません。一番大切なことは信じることです。それも半信半疑でなく、徹底的に信じ続けることです。そのような祈りは必ず「そのとおりになる」とイエス様は言われます。

祈りは言葉です。自分の願いや問題を言葉にしてイエス様に告白できたとき、その問題は大きく解決しています。「できない」と心に信じていることは、いつまでたっても「できる」ことはありません。

内なる思いを神様に対して祈ることができたとき、その問題からあなたは解放されます。その願いや問題はあなたの側から、神様に渡されたのです。

また、真実に祈れば祈るほど、一方的に自分の思いを願うだけでなく、それに対する神様の言葉に気付くようになります。聖書の言葉が自分に対して語られるようになります。ただ自分の願いに同意してもらうのではなく、神様のアドバイスを聞く姿勢が与えられます。祈りは神様に話すことと聞くことなのです。

信仰による祈りは山をも動かします。ここでいう「山」とは誇張表現で、困難や問題を象徴します。

神様に自分の心を正直に注いで祈るとき、神様に赦していただかなければならない罪が自分にあることを知ります。そしてその時、私たちもまた、誰かが自分に犯した罪を赦さなければなりません。

その時、私たちは神様の前で平安でいることができます。神様の前に安心して進み出ることができるのです。

イエス様を罪からの救い主と信じて罪赦された者は、恐れることなく、心から信頼して祈りを捧げることができるのです。

自分の人生の中で、まことの神様が生きて働かれることを祈ることができるのです。

人生にはいくつもの山があります。その中には、決して動かない巨大な山もあります。しかし、イエス様を信じるなら、きっと、あなたはたくさんの問題や試練を乗り越えてきたことに気付くはずです。山を乗り越えてきたのです。いえ、山は動いたのです。祈りに応えて山は動くのです。信じましょう。アーメン

キリストはあなたの心の宮をきよめられる

マルコの福音書11章12-19節より

2021年1月10日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

旧約聖書ではいちじくの木はしばしばイスラエルをあらわします。このいちじくも遠くから見ると葉をつけていましたが、近くで見ると実はつけていません。これはイスラエルの人々の神様に対する姿勢を表わしています。エルサレムはたくさんの巡礼者が集まりにぎわっていて、礼拝が捧げられていても、外見や形式だけで、一番大事な彼らの心がどれだけ神様に注がれていたでしょうか。

実際、エルサレムの中の、「異邦人の庭」と呼ばれる場所は世的な場所となっていました。税を納めるための巡礼者の外貨を両替する証人がいました。彼らは法外な手数料を取っていました。また、いけにえのための鳩は通常の店の10倍以上の値段でした。彼らは宗教を逆手に商売していました。また、祈りと瞑想のための静けさも奪い取っていました。商人たちは、神のことなどまったく考えず、自分たちの利益だけを求めていたのです。当時、エルサレムとエリコの通じる道には険しい曲がりくねった谷があり、そこは強盗が頻繁に現れました。イエス様は、神聖なエルサレムに、もっと悪い強盗が住んでいると言われました。

人間は神に似せて造られました。人間はイエス様が住まれる宮なのです。しかし、人間は罪をもっています。この罪によって、イエス様があなたの中に入ることが出来なくなっています。罪に操られ、心の中に悪い思いがあります。罪は神様をあなたから追い出して、神さまに祈り、話すことができなくなっています。

エルサレムの商人や両替商をイエス様は激しく怒られ、追い出されました。ただの怒りの叱責ではなく、これはイエス様のきよめなのです。人の中の罪も、私たちが自分の力は感情によって追い出すことは出来ません。人間の罪の赦しのためにキリストが十字架できよい血潮を流される必要がありました。イエス様を罪からの救い主と信じて、罪から解放される必要があるのです。

そのとき、あなたの心にイエス様が住まわれます。全人格的にすべてが新しくされ、神様と和解し、関係が回復されます。あなたはもう単立単独でなく、一人ぼっちでなくイエス様と一緒に生きるのです。そして人との関係、内なる自分との関係も健全にされます。アーメン。

世の熱狂は冷めるが、キリストは永遠の救いを与えられる

マルコの福音書11章1-11節より

2021年1月3日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

11章からはイエス様のエルサレムでの最後の1週間の出来事です。今日の箇所は十字架で死なれ復活される1週間前のしゅろの週と言われるお祭りです。

イエス様はろばの子に乗りエルサレムに来られました(勝利の入城と言います)

救い主を喜んで、ユダヤの人たちは、自分の上着を道にしき、しゅろの枝を振ってイエス様をお迎えします。彼らはイエス様が王となられ、武力や政治によって、自分たちを貧困や、しいたげ、苦しみ、差別、病から救い出してくれると考えました。しかし、ろばに乗られるイエス様は、父なる神様に素直に従い、柔和で平和な君を象徴していました。愛して仕えることにより、まことの永遠の平和の王国を建てるため十字架に向かわれます。罪からの救いを与えるお方です。

イエス様を迎えた民衆たちは1週間後にイエス様を十字架につけろと叫ぶ者に変わります。

親の愛を子どもはどれくらい深く知っているでしょうか。親の愛の深さを知るためには、子供の人格の成長が必要です。

神の愛と救いを知るために、神の約束である、聖書の御言葉を求めて、信じることが必要です。罪の自覚による心の悔い改めが必要なのです。

熱狂的な世の中のコマーシャル、中身のない見栄え、お祭り騒ぎに救いはありません。ただ熱い思いだけでは救いはありません。万物の創造主、宇宙の主権者である唯一の神、聖書でご自身を現されるイエス様が人間を救うお方なのです。

世の中は私たちに本当に必要で正しいことを与えているでしょうか。神様は、私たちに本当に必要な大切な救いを与えようとされ、ひとり子イエス様を十字架につけられました。それほどまでに神様はあなたを愛されています。

聖書の預言はすべて成就してきました。まもなく、残された預言、イエス様がさばきのために来られて、終わりの時がきます。この世はいつまでも続きません。

人間の考えた救いは何の力もありません。イエス様を信じる者は救われます。

アーメン。

キリストの十字架による贖いの代価

マルコの福音書10章35-52節より

2020年12月27日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスの十字架が近づいています。しかし弟子たちは、自分のことしか考えられません。彼らは天国でも、人より優位になりたいと考えていました。ヤコブとヨハネはすべてを捨ててイエスに従いましたが、今は自分の名誉を求めています。

この世では人の上に立って権力をもつ者が偉いとされます。しかし、実際に手や足となり、汗して働き、人と関わり、自分を犠牲にして、仕えるものが真の働きをします。イエスが求める人の上に立つ者とは、自分以上に誰かを生かすことです。仕えて人の役に立つしもべです。

イエスは待ち望んだメシヤ(救い主)でした。しかし、イエスは十字架で死のうとされていました。弟子たちにとって、この二つは矛盾していました。十字架が理解できませんでした。十字架は仕えるしもべとしての完成であり目的でした。

贖いの代価とは奴隷の身代金のことです。罪の奴隷である人間を解放して、神のものとするために、イエスは人間の身代わりとなり、罪の刑罰を受けられたのです。イエスは十字架で父なる神様の怒りを受け、捨てられたのです。しかし、イエスは弟子たちを愛し受け入れられます。弟子たちは何もわからなくても、イエスについていくならば、必ず栄光のゴールが待っていることだけはわかっていました。

十字架が理解できなくても、また、精神的にキリストを受け入れられないことも関係ありません。人間は十字架で死なれた敗北者のキリストではなく、勇ましくかっこいい神様を受け入れたいのです。

しかし、本当の理由はどうしても離れられない罪が原因です。あなたの悪習慣や過去の大きな過ちかも知れません。しかし、罪とは神に背を向けて、神を無視して、自分の欲のまま生きることなのです。

キリストを信じることは信頼することです。あなたは幽霊を信じていても信頼することはないでしょう。

あなたが心から願うことは何ですか。そのために、神様に何をしてもらいたいですか。はっきり言えることは、キリストが恥と責めを受け死なれた十字架の救いを受け取ること以外には神様に求めることはないのです。

キリストは十字架を同情してもらいたいのではありません。あなたがキリストを信じて、救われ、喜ぶことを、何よりもご自身の喜びとして満足して自らすすんで十字架をしのばれたのです。

アーメン。

キリストによる家族の回復

マルコの福音書10章28-34節より

2020年12月13日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様がメシヤ(救い主)であるという福音を語ることは、当時のユダヤでは迫害の危険をともなうことでした。今の日本では福音を伝えて迫害を受けることはないかも知れませんが、命に関わる危険な国もあります。しかし、日本でもキリスト教を信じて、日曜日に教会へ行くことを家族は反対するかも知れません。

正しくはキリスト教と言う言葉はなく、キリストとの関係に新しく生きることです。キリストを信じるならば、あなたは新しい家族の一員とされるのです。。

教会は神の家族です。キリストを信じて救われた者はみんな家族なのです。人間は神様により命と生きる目的が与えられました。神様は父なるお方であり、私たちは神様の子どもなのです。そして神様が人を結び合わせて家族を与えられるのです。地上の家族は、天の家族をこの地上で実現するために与えられているのです。

神様は家族がイエス様を信じて、神の関係と家族の関係の回復が救われることを願っておられます。

今、世界中で人間関係が乱れ、学校崩壊や家庭崩壊が当たり前のように起こっています。それはすべての人が生まれもっている罪によるのです。また世界が罪に満ちているためです。罪により人間は自己中心になり、家族にも心を素直に開けず、本来の健全な関係が難しくなっています。

十戒の中にあなたの父母を敬いなさいとあります。人間関係の基本は家族です。親子、兄弟です。人間関係の基本は会話です。挨拶です。家族でお互いに顔を見て、笑顔で明るく挨拶ができていますか。簡単そうで実はとても大切なことなのです。そこから、となり近所、地域社会、学校、職場と広がっていきます。

聖書はさらに大切な関係、神様を敬いなさいとあります。まことの家族関係の回復のために、家族が愛し合いひとつとされるためにはキリストを受け入れ罪から救われることが必要です。

イエス様も家族から理解されず、人間の罪を救うために十字架に架かられました。しかし復活され、イエス様の兄弟たちも救われ、まことの家族とされました。

キリストを信じることは遠回りに感じるかも知れませんが、家族が救い主キリストを受け入れることが本来の家族の関係の回復にいたる唯一の道なのです。 アーメン