知恵のことば、イエス様こそ日々の宝

箴言3章1-18節より

土山みことばキリスト教会

2024年1月7日

<聖書>

自分を知恵(ちえ)のある者と思うな。【(しゅ)】を(おそ)れて、(あく)から(はな)れよ。それはあなたのからだを健康(けんこう)にし、あなたの(ほね)に元気をつける。あなたの財産(ざいさん)とすべての収穫(しゅうかく)初物(はつもの)で、【(しゅ)】をあがめよ。そうすれば、あなたの(くら)(ゆた)かに()たされ、あなたの(さか)ぶねは新しいぶどう(しゅ)であふれる。わが子よ。【(しゅ)】の()らしめをないがしろにするな。その叱責(しっせき)をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、【(しゅ)】は愛する者をしかる。(さいわ)いなことよ。知恵(ちえ)を見いだす人、英知(えいち)をいただく人は。それの(もう)けは(ぎん)(もう)けにまさり、その収穫(しゅうかく)黄金(おうごん)にまさるからだ。知恵(ちえ)真珠(しんじゅ)よりも(たっと)く、あなたの(のぞ)むどんなものも、これとは(くら)べられない。その右の手には長寿(ちょうじゅ)があり、その左の手には(とみ)(ほま)れがある。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。知恵(ちえ)は、これを(かた)(にぎ)る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は(さいわ)いである。

箴言(しんげん)3章1-18節)

<説教>

箴言(しんげん)は、古今(ここん)東西(とうざい)、最大の知者(ちしゃ)ソロモンによって書かれました。いろいろな国でも箴言(しんげん)のように、ことわざを集めた(じっ)生活(せいかつ)知恵(ちえ)や人生の教訓は存在します。しかし、箴言(しんげん)は神を(おそ)れ、神を礼拝(れいはい)する者が、神のおしえに(したが)って、どのように日常(にちじょう)生活(せいかつ)を歩むかという訓練(くんれん)の書です。

箴言(しんげん)を読むときのひとつの参考(さんこう)を以下にご紹介します。

知恵(ちえ)

生活の知恵(ちえ)という意味ではなく、神との関係から教えられることで、神を(おそ)れることが知恵(ちえ)の始まりです。

(おろ)かな者】

知恵(ちえ)のある者の反対として(おろ)かなもの、なまけ者のことが書かれています。(はたら)(もの)(あり)から学びなさいと言われます。

【友】

箴言(しんげん)では友、隣人(となりびと)についてもよく出てきます。友とは、どんな時にも愛するものである。自分に敵対(てきたい)するような人に対しても、よき隣人(となりびと)として()()いなさいと書かれています。
本当の友を得るようにとの教えや、本当の友の()たす役割(やくわり)などについての教えもあります。

【ことば】

ことばを正しく使うことの重要(じゅうよう)さも教えています。最上(さいじょう)のことばは、正しい(もの)の心から発するのだと、(ふか)く心の問題をあらわしています。
イエス様は、人は心にあることをことばにすると言われます。

【おしえ】

子どもについておしえが大切であることも書いています。正しい道への方向を教え、正しいいのちの道を自分で(えら)ぶことができるように(みちび)くのがおしえです。

しかし、箴言(しんげん)全体についても言えることですが、どんなによい教育(きょういく)訓練(くんれん)であっても、知恵(ちえ)(おし)()むことはできないということです。それらは、知恵(ちえ)を求める道を(えら)ぶようにと心を向けさせるものに()ぎません。

わたしの叱責(しっせき)に心を()めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの(れい)(そそ)ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。

箴言(しんげん)1:23)

【いのちの木】

神を(おそ)れ、悪から(はな)れ、神との正しい関係にある者に(あた)えられる祝福(しゅくふく)長寿(ちょうじゅ)平安(へいあん)(新約では(すく)いの意味)、いのちです。これは、霊的(れいてき)な永遠のいのちに(いた)祝福(しゅくふく)です。地上の、物質の、一時的な祝福(しゅくふく)ではなく、天の、霊的(れいてき)な、永遠の祝福(しゅくふく)はまことの(すく)(ぬし)、イエス・キリストによって(あた)えられます。
箴言(しんげん)には、いのちの木のほかに、いのちの(いずみ)、いのちの道ともあります。いのちの道はいのちに(いた)る道という意味と、いのちに(ぞく)する道という意味でもあります。
その反対は、死への道、よみ、(ほろ)びの(ふち)、やみなど、悪者の運命として書かれています。これは神をあざける者がいく道と聖書は言います。

(しゅ)】を(おそ)れることは知識の初めである。(おろ)か者は知恵(ちえ)訓戒(くんかい)をさげすむ。

箴言(しんげん)1:7)

箴言(しんげん)中心(ちゅうしん)聖句(せいく)でもあります。

(しゅ)(おそ)れることは知恵(ちえ)であり、(しゅ)をあざける者は(おろ)か者です。そして(おろ)か者は、なまけ者でもあります。(しゅ)(おそ)れることなく、本当の友にも、隣人(となりびと)にもなることはできず、人の(とく)を高めることばを(はっ)することもできません。夫婦、親子、兄弟など家族間の関係もまた、神を(おそ)れることによって正しくされます。

神を(おそ)れることがいのちであり、神をあざけることが死なのです。

なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、【(しゅ)】から(めぐ)みをいただくからだ。わたしを見失(みうしな)う者は自分(じぶん)自身(じしん)をそこない、わたしを(にく)む者はみな、死を愛する。」

箴言(しんげん)8:35-36)

神のことばとして、イエス・キリストはこの世に来られました。

イエス・キリストを信じる者は、神の知恵(ちえ)のことば、箴言(しんげん)預言(よげん)された祝福(しゅくふく)をいただいて日々、生きることができます。

天の御国(みくに)は、畑に(かく)された(たから)のようなものです。人はその(たから)を見つけると、それを(かく)しておいて、大喜(おおよろこ)びで帰り、持ち物を全部()(はら)ってその畑を買います。

(マタイの福音書13:44

表裏のない生き方

ルカの福音書12章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月31日

<聖書>

そうこうしている(あいだ)に、おびただしい(かず)群衆(ぐんしゅう)が集まって来て、(たが)いに足を()み合うほどになった。イエスはまず弟子(でし)たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン(だね)に気をつけなさい。それは彼らの偽善(ぎぜん)のことです。
おおいかぶされているもので、(あらわ)されないものはなく、(かく)されているもので、知られずに()むものはありません。
ですから、あなたがたが(くら)やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上(おくじょう)で言い広められます。
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを(おそ)れてはいけません。
(おそ)れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに()()権威(けんい)を持っておられる方を(おそ)れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を(おそ)れなさい。
五羽(ごわ)(すずめ)は二アサリオンで売っているでしょう。そんな(すずめ)一羽(いちわ)でも、神の御前(みまえ)には(わす)れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな(かぞ)えられています。(おそ)れることはありません。あなたがたは、たくさんの(すずめ)よりもすぐれた者です。
そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で(みと)める者は、人の子もまた、その人を神の御使(みつか)いたちの前で(みと)めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使(みつか)いたちの前で知らないと言われます。

(ルカの福音書12章1-9節)

<説教>

あなたの生き方は表裏(おもてうら)があるでしょうか。

今日の聖書(せいしょ)箇所(かしょ)でイエス様が言われる「偽善(ぎぜん)」とは、もともとは役を(えん)じる意味でした。そかから、仮面をかぶって、()い人を(えん)じる意味になりました。

(つく)られたもので、神の前で(かく)れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが(はだか)であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明(べんめい)をするのです。

(ヘブル人への手紙4:13

神さまはすべてのことをご存知(ぞんじ)です。そのことを信じられない人間は、秘密(ひみつ)(かく)しおおせると高ぶり、(つみ)(おか)すのです。(だれ)にも見つからなければ大丈夫(だいじょうぶ)だと思い込んでいます。

人生に表裏(おもてうら)があってはならないのです。()い人間を(えん)じる必要はないのです。神さまと自分を(いつわ)って生きて幸せになることなどできません。

神さまは、()い人間を(よそお)うのが上手(じょうず)な人より、(おろ)かであっても正直な罪人(つみびと)(えら)ばれます。ありのままで神様を信じていいのです。

神さまの教えに熱心(ねっしん)であったパリサイ人と言われる人たちは、見た目は立派(りっぱ)でしたが、内面の心は、(わる)(よく)でいっぱいでした。信仰(しんこう)形式(けいしき)は守っていましたが、一番大切な神さまを愛することが()けていました。

何よりも彼らは、神さまの言葉を(つた)える預言者(よげんしゃ)たちを()(ばら)い、神さまの言葉に()(したが)いませんでした。そして、預言者(よげんしゃ)によって語られた(すく)(ぬし)イエス・キリストを信じずに、十字架(じゅうじか)に付けてしまいました。

イエス・キリストを信じることなしに、まことの神さまを知ることはできません。神さまを人生の中に(むか)えることなしに、生き方が変わることは決してありません。

イエス様を信じる者は(つみ)(ゆる)されるのです。神の前に()(正しい者)とされ、その(れい)(たましい)は決して(ほろ)ぶことはありません。しかし、生まれたままの罪人(つみびと)のままで死を(むか)えるなら、肉体も(たましい)もゲヘナと言われる(ほろ)びの(ふち)へ投げ込まれてしまいます。人間はこの権威(けんい)を持つ神さまこそを恐れなければならないのです。

値段(ねだん)が付かない価値(かち)のない(すずめ)さえも神さまはご存知(ぞんじ)です。まして、あなたは(すずめ)よりもはるかに価値(かち)のある存在(そんざい)です。あなたの(かみ)()もみな数えられる神さまを、あなたの人生にお(むか)えするなら、もう表裏(おもてうら)のある人生、()い人を(えん)じる人生から解放(かいほう)されます。神さまの前に真実に生きることができるように日々、あなたに関わってくださいます。

イエス様が十字架(じゅうじか)で死んでくださったのは、あなたというかけがえのない存在(そんざい)のためなのです。神さまはあなたを(あい)されています。これが聖書の一番大切なメッセージ(福音(ふくいん))です。

新しい年をイエス様とともに、(あい)平安(へいあん)感謝(かんしゃ)()(あふ)れますようにお祈りします。

約束のメシヤは罪からの救い主

マタイの福音書1章16節-23節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月24日クリスマス礼拝

<聖書>

ヤコブにマリヤの(おっと)ヨセフが生まれた。キリストと()ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。それで、アブラハムからダビデまでの(だい)が全部で十四(だい)、ダビデからバビロン移住(いじゅう)までが十四(だい)、バビロン移住(いじゅう)からキリストまでが十四(だい)になる。
イエス・キリストの誕生(たんじょう)は次のようであった。その母マリヤはヨセフの(つま)と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊(せいれい)によって身重(みおも)になったことがわかった。
おっと)のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密(ないみつ)に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い(めぐ)らしていたとき、(しゅ)使(づか)いが(ゆめ)(あらわ)れて言った。「ダビデの子ヨセフ。(おそ)れないであなたの(つま)マリヤを(むか)えなさい。その(たい)宿(やど)っているものは聖霊(せいれい)によるのです。マリヤは男の子を()みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の(たみ)をその(つみ)から(すく)ってくださる方です。」
このすべての出来事(できごと)は、(しゅ)預言者(よげんしゃ)(とお)して言われた事が成就(じょうじゅ)するためであった。
「見よ、処女(しょじょ)がみごもっている。そして男の子を()む。その名はインマヌエルと()ばれる。」((やく)すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

(マタイの福音書1章17節-23節)

<説教>

神は天地(てんち)万物(ばんぶつ)創造(そうぞう)され、イスラエルの歴史(れきし)支配(しはい)され、今も生きて働いて万物(ばんぶつ)(ささ)えておられます。

しかし、人は力ある神よりも、見えるものや権力(けんりょく)(たよ)ってしまいます。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)には、BC700頃、ユダの王アハズが、敵国(てきこく)に攻められ、恐れの中で神に信頼(しんらい)することができなくなったとき、神が預言(よげん)のことばによりご自身を現されました。

「それゆえ、(しゅ)みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女(しょじょ)がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

(イザヤ書7:14)

「インマヌエル」それは、いかなる状況(じょうきょう)の中でも、すべての主権者(しゅけんしゃ)である神があなたと共におられるという真理(しんり)です。

このアハズ王に対する神の預言(よげん)は、究極的(きゅうきょくてき)にはそれから約700年後のキリストの誕生によって成就(じょうじゅ)しました。それが世界で最初のクリスマスです。

歴史(れきし)はキリスト誕生(たんじょう)から西暦(せいれき)が始まります。キリストは十字架(じゅうじか)()かり、ただ信じる者が(すく)われる新しい契約(けいやく)の時代になりました(旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)から新約(しんやく)聖書(せいしょ)へ)。

神の約束のことばによって、この世に来られたメシヤ、イエス・キリストは、信じる者に(つみ)(ゆる)しをくださる(すく)(ぬし)です。人間の問題はこの(つみ)にあるのです。

(つみ)による神と人間との(へだ)ての(かべ)()(こわ)して、いかなる時も、永遠に共にいてくださるインマヌエルの神さまです。そこにだけ、まことの平安があります。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

(マタイ28:20

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良い忠実なしもべと悪いなまけ者のしもべ

マタイの福音書25章14節-30節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月17日

<聖書>

天の御国(みくに)は、しもべたちを()んで、自分の財産(ざいさん)(あず)け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力(のうりょく)(おう)じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを(わた)し、それから旅に出かけた。
五タラント(あず)かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント(あず)かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント(あず)かった者は、出て行くと、地を()って、その主人の金を(かく)した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算(せいさん)をした。
すると、五タラント(あず)かった者が来て、もう五タラント()()して言った。『ご主人さま。私に五タラント(あず)けてくださいましたが、ご(らん)ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実(ちゅうじつ)なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実(ちゅうじつ)だったから、私はあなたにたくさんの物を(まか)せよう。主人の(よろこ)びをともに(よろこ)んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント(あず)かりましたが、ご(らん)ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実(ちゅうじつ)なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実(ちゅうじつ)だったから、私はあなたにたくさんの物を(まか)せよう。主人の(よろこ)びをともに(よろこ)んでくれ。』
ところが、一タラント(あず)かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、()かない所から()()り、()らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に(かく)しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が()かない所から()()り、()らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に(あず)けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息(りそく)がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から()()げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、(あた)えられて(ゆた)かになり、持たない者は、持っているものまでも()()げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに()()しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

(マタイの福音書25章14節-30節)

<説教>

マタイの福音書(ふくいんしょ)24、25章は終末(しゅうまつ)に関するイエス様の教えです。

24章1-44節は、エルサレムの滅亡(めつぼう)終末(しゅうまつ)前兆(ぜんちょう)、イエス様の再臨(さいりん)(世の終わりにイエス様がこの世に来られること)です。24章45節から25章は、イエス様の再臨(さいりん)に、どのように(そな)えるかの3つのたとえです。

イエス様を信じる者は、神さまから必ず何らかの賜物(たまもの)が与えられています。

ひ とりひとりにふさわしい神さまによって定められた賜物(たまもの)です。ある人は5タラント、ある人は2タラント、別の人は1タラントといった具合(ぐあい)にです。

1タラントは労働者(ろうどうしゃ)の6000日分の給料です。1タラントの賜物(たまもの)と言っても、決して小さなものではありません。

イエス様がもう一度この世に来られる再臨(さいりん)は、いつかは誰にもわかりません。しかし、再臨(さいりん)までのときは無意味ではなく、それぞれが、任された与えられた賜物(たまもの)を、活用して生かす時なのです。

しかし、1タラント(あず)かった者は、それを活用して、失敗(しっぱい)することを(おそ)れて、使わずに(かく)していまいます。あるいは自分に与えられた賜物をちっぽけなものと考えたのかも知れません。

やがて私たちは、終わりの日に清算(せいさん)のときを迎えます。大切なのは、いくら(もう)けたかではなく、それを実際(じっさい)に活用したかどうかが問われる清算(せいさん)です。

このたとえの中心は、私たちが、「忠実(ちゅうじつ)」であったかどうかです。与えられた賜物(たまもの)を神さまのために活用したかどうかです。そして、忠実(ちゅうじつ)賜物(たまもの)を用いた者は、天の御国(おんくに)での賜物(たまもの)を任されるのです。それはこの世では大きな富である5タラントのお金とは比べられない、莫大(ばくだい)な神の資産(しさん)です。

小さい事に忠実(ちゅうじつ)な人は、大きい事にも忠実(ちゅうじつ)であり、小さい事に()忠実(ちゅうじつ)な人は、大きい事にも()忠実(ちゅうじつ)です。

(ルカ16:10

このたとえは、良い忠実(ちゅうじつ)なしもべと、悪いなまけ者のしもべとして比べられています。

良いしもべは、神さまが喜ばれることを、自分の喜びとして、忠実(ちゅうじつ)に仕えた者です。それに対して、悪いなまけ者のしもべとは、自分が神様のしもべであることを不平に思って、神さまに対して間違った考えをして、神さまに(したが)えないことを言い訳するしもべです。

あなたは、わずかな物に忠実(ちゅうじつ)だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

(マタイ25:21

これが、人間が神様に造られた目的です。神さまは、私たちが神様とともに喜んで生きるために、命を与えてくださったのです。人間は、神さまが与えてくださる恵みと愛を受けて感謝して、神さまに(ささ)げ、(したが)うとき、一番幸せなのです。

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

(マタイ25:29

これは、不変(ふへん)法則(ほうそく)真理(しんり)です。

与えられた(賜物(たまもの)能力(のうりょく)は、使わないと、失われてしまうのです。どんな素晴らしい道具も使わないと(さび)ついてしまうのです。しかし、能力、才能は使うならば、どんどん磨かれてさらに用いられていきます。

神さまがあなたに与えてくださった素晴らしい賜物(たまもの)は、誰かと比べることではありません。それを、自分のためだけでなく、神さまのために、誰かのために、喜んで活用しましょう。それは、何よりも必ず、あなたの喜びとなります。

正しさにまさる愛~十字架の赦し

ヨハネの福音書7章53節-8章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月10日

<聖書>

〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度(みや)に入られた。民衆(みんしゅう)はみな、みもとに()って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
すると、律法(りっぽう)学者(がくしゃ)とパリサイ人が、姦淫(かんいん)の場で()らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に()いてから、
イエスに言った。「先生。この女は姦淫(かんいん)現場(げんば)でつかまえられたのです。
モーセは律法(りっぽう)の中で、こういう女を(いし)()ちにするように(めい)じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発(こくはつ)する理由(りゆう)()るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで(つみ)のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、(ねん)長者(ちょうしゃ)たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり(のこ)された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを(つみ)に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを(つみ)に定めない。行きなさい。今からは決して(つみ)(おか)してはなりません。」〕

(ヨハネの福音書7章53節-8章11節)

<説教>

律法(りっぽう)学者(がくしゃ)とパリサイ人が、姦淫(かんいん)の場で()らえられたひとりの女を連れて来て(ヨハネ8:3)

当時のユダヤ社会では、殺人と偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)、そして、この姦淫(かんいん)刑罰(けいばつ)死刑(しけい)です(石打ち)。

この女を(つみ)に定めるのか、どうするかによって彼らはイエスを(わな)にかけて、議会(ぎかい)告発(こくはつ)して、(ほうむ)()ろうとします。

律法(りっぽう)学者(がくしゃ)らは、姦淫(かんいん)の女をイエスや群衆(ぐんしゅう)の真ん中に置きます。彼らは、もはや(つみ)(おか)した女を、まるでもののように(あつか)いました。イエスを(おとしい)れるための道具のように。

しかし、イエスは(おどろ)くべきことを言われます。

イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで(つみ)のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

(ヨハネ8:7)

それは、姦淫(かんいん)(つみ)(おか)しただけでなく、心の中で(みだ)らなことを一度も考えたことのないものだけが、この女に石を投げることができるという意味でした。

姦淫(かんいん)(つみ)()(ざい)です。婚姻(こんいん)関係(かんけい)のない者が性的な行為(こうい)を行うことは()(ざい)です。

しかし、イエスは女を(つみ)に定めるのではなく、女を連れてきた連中(れんちゅう)や、好奇(こうき)な目で女を冷たく見る群衆(ぐんしゅう)たちの(つみ)指摘(してき)したのです。

自分が正しいと考えることは、多くの場合、(つみ)根本的(こんぽんてき)姿勢(しせい)と言えます。イエスの前では、(だれ)も自分に(つみ)がないと言って、女に石を投げることはできないのです。

(だれ)も人の(つみ)はもとより、些細(ささい)なことを人間的な判断(はんだん)でさばいてはいけないと聖書(せいしょ)は教えます。それよりも自分の(つみ)をよく吟味(ぎんみ)すべきです。

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の(はり)には気がつかないのですか。

(マタイ7:3)

ひとり、またひとり()っていき、イエスと女だけが(のこ)りました。イエスに女を非難(ひなん)する姿勢(しせい)は見られません。

そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを(つみ)(さだ)めない。行きなさい。今からは決して(つみ)(おか)してはなりません。」

(ヨハネ8:11)

いかなる権威(けんい)ある律法(りっぽう)法律(ほうりつ))もその正しさだけで、いかなる人もさばいてはいけないのです。どんな(つみ)(おか)した者にも、その人格(じんかく)(みと)め、(つみ)(さだ)めることが最終的(さいしゅうてき)目標(もくひょう)ではなく、その人を(ぜん)に向かわせることが目的なのです。

イエスは、その人の過去(かこ)をご(らん)になるでしょう。しかし、その人の未来をもご(らん)になるのです。その人のこれからの生き方を信じて、その(つみ)(ゆる)されようとします。かつての(つみ)(びと)が、イエスを信じることにより、善人(ぜんにん)(あい)の人に変えられることをイエスは何より信じているのです。

この「イエスと姦淫(かんいん)の女」の記事は、姦淫(かんいん)(つみ)が軽くあしらわれることを恐れて、写本(しゃほん)によっては(はぶ)かれています。

しかし、イエスは姦淫(かんいん)(つみ)をいとも簡単に(ゆる)されたのではありません。この女性だけでなく、彼女を告発(こくはつ)した律法(りっぽう)学者(がくしゃ)やパリサイ人たち、いえ、すべての人間の(つみ)十字架(じゅうじか)の上で、ご自身の(つみ)として受けようとされるお方の(つみ)(ゆる)しの宣言(せんげん)です。

今からは決して(つみ)(おか)してはなりません。(ヨハネ8:11)

(ゆる)された者としての、(つみ)との戦いがあるでしょう。しかし、イエス様は私たちをどこまでも信じてくださいます。また(つみ)()()つ力も(あた)えてくださいます。

(つみ)人は(つみ)(さだ)められて当然(とうぜん)と考えるかも知れません。しかし神さまの道は人間とはまったく(ちが)うのです。

(しゅ)】を(もと)めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、()(もと)めよ。

悪者(わるもの)はおのれの道を()て、不法者(ふほうしゃ)はおのれのはかりごとを()()れ。【(しゅ)】に帰れ。そうすれば、(しゅ)はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。(ゆた)かに(ゆる)してくださるから。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと(こと)なり、わたしの道は、あなたがたの道と(こと)なるからだ。──【(しゅ)】の御告(みつ)げ──

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

(イザヤ55:6-9

神さまは、罪人である人間を(つみ)(さだ)めることより、その(つみ)をご自身のひとり子であるイエス・キリストによって(つみ)刑罰(けいばつ)を受けてくださいました。なぜなら神は(あい)だからです。

人として来られたイエス様は、罪人(つみびと)をさばきません。神さまはイエス様にさばく権威(けんい)(あた)えられていることも事実です。しかし、神さまはイエス様の十字架(じゅうじか)によって(つみ)(ゆる)しを用意してくださいました。

その(すく)いに対して、その人がどのように応答(おうとう)するか、その態度(たいど)姿勢(しせい)(これを信仰(しんこう)と言います)によって(つみ)(さだ)められるのです。

罪赦された者として愛に生きる

ルカの福音書7章36-50節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月26日

<聖書>

さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを(まね)いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓(しょくたく)()かれた。
すると、その町にひとりの罪深(つみぶか)い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓(しょくたく)()いておられることを知り、香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持って来て、
泣きながら、イエスのうしろで御足(みあし)のそばに立ち、(なみだ)御足(みあし)をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足(みあし)に口づけして、香油(こうゆ)()った。
イエスを(まね)いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者(よげんしゃ)なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深(つみぶか)い者なのだから」と心ひそかに思っていた。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。
「ある金貸(かねか)しから、ふたりの者が金を()りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ()りていた。
彼らは(かえ)すことができなかったので、金貸(かねか)しはふたりとも(ゆる)してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸(かねか)しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに(ゆる)してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断(はんだん)は当たっています」と言われた。
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を(あら)う水をくれなかったが、この女は、(なみだ)でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
あなたは、わたしの頭に(あぶら)()ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油(こうゆ)()ってくれました。
だから、わたしは『この女の多くの(つみ)(ゆる)されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか(ゆる)されない者は、少ししか愛しません。」
そして女に、「あなたの(つみ)(ゆる)されています」と言われた。
すると、いっしょに食卓(しょくたく)にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「(つみ)(ゆる)したりするこの人は、いったいだれだろう。」
しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰(しんこう)が、あなたを(すく)ったのです。安心して行きなさい。」

(ルカの福音書7章36-50節)

<説教>

パリサイ人のシモンはイエスを食事に(まね)きました。

そこに(まね)かざる、ひとりの罪深(つみぶか)い女がイエスのために自分のできる最高の愛を(ささ)げます。

町中の者が、この女の悪い(うわさ)を知っていました。おそらく遊女(ゆうじょ)であったと思われます。この女自身が、自分の罪深(つみぶか)い生き方をこれ以上続けられないどん(ぞこ)(くる)しんでいました。そんな時、イエスの(うわさ)を聞きました。

イエスは多くの人々を病気と(くる)しみと悪霊(あくれい)からいやし、死人をよみがえらせ、(まず)しい者たちに(つみ)(すく)いの福音(ふくいん)()(つた)えていました(ルカ7:21-23)。

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫(じょうぶ)な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を(まね)くためではなく、罪人(つみびと)(まね)くために来たのです。』」

(マルコの福音書2:17)

もう女は、明日を生きる力もありませんでした。なぜこんな人生になってしまったのか。愛されたい。心から(よろこ)んで生きたい…すべての希望(きぼう)は消え去っていきました。

そんなときにイエス様のことを聞いたのです。そして、彼女はイエス様を信じて、心のありのままをイエス様に祈ったのです。

その瞬間(しゅんかん)でした。彼女の重い心が、傷が、罪責(ざいせき)が取り去られたのです。

内から(あふ)れる愛と感謝を()さえきれずに、彼女はイエス様に会いに行きます。

このパリサイ人のシモンはイエスを預言者(よげんしゃ)かも知れないと思いました。今、あちこちで評判(ひょうばん)のイエスの人気にあやかろうと(まね)きました。当時の客人(きゃくじん)をもてなす当たり前の、足を洗う水も、祝福(しゅくふく)の口づけも彼にはありませんでした。

罪深(つみぶか)い女とシモンの(ちが)いは何でしょうか。それは自分の(つみ)自覚(じかく)(ちが)いです。

イエスが言われた、たとえの借金(しゃっきん)金額(きんがく)のように、自分の(つみ)数量(すうりょう)(はか)ることはできません。ただ自分の(つみ)自覚(じかく)によるのです。そしてパリサイ人シモンと女の(ちが)いは、愛する生き方において明らかになるのです。

「だから、わたしは『この女の多くの(つみ)(ゆる)されている』と言います。
それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか(ゆる)されない者は、少ししか愛しません。」

(ルカの福音書7:47

神はどんな(つみ)(ゆる)してくださるのでしょうか。そうです。(ゆる)されない(つみ)はありあません。

人間ならば、償い切れない(つみ)があるかも知れません。しかし、神の前では(ゆる)されない(つみ)はないのです。それは、私たちが(つみ)を償うのではなく、キリストが人間が()うべき(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)でご自身のきよい命によって払ってくださったからです。

シモンはイエスが(つみ)(ゆる)しを宣言(せんげん)した事実(じじつ)が、わかりませんでした。

しかし、この罪深(つみぶか)い女が、香油(こうゆ)()り、(なみだ)でぬらして、髪の毛でぬぐった御足(みあし)、そのお方は預言者(よげんしゃ)どころか、この地上で唯一(ゆいいつ)、人間の(つみ)(ゆる)すことが出来るお方、(すく)(ぬし)だったのです(マルコ2:10、使徒4:12)。

すべての人は、神を見なければなりません。このキリストなる神さまによって(つみ)(ゆる)されなければなりません。その重荷(おもに)はあなた一人で()うにはあまりにも重すぎるのです。

この女の姿こそが信仰(しんこう)に生きる者の姿です。

信仰(しんこう)がなくては、神に(よろこ)ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には(むく)いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

(ヘブル人への手紙11:6

「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰(しんこう)が、あなたを(すく)ったのです。安心して行きなさい。」」

(ルカの福音書7:50

この「安心して行きなさい」は平安に入りなさいという意味です。

そして、(ゆる)された者は、愛する者として生きるのです。

イエスを信じて(つみ)重荷(おもに)をおろして、愛と平安と(よろこ)びの人生に生きていこうではありませんか。

土の器~闇から光へ

コリント人への手紙第二3章16節-4章7節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月19日

<聖書>

しかし、人が(しゅ)に向くなら、そのおおいは()(のぞ)かれるのです。
(しゅ)御霊(みたま)です。そして、(しゅ)御霊(みたま)のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを()りのけられて、(かがみ)のように(しゅ)栄光(えいこう)反映(はんえい)させながら、栄光(えいこう)から栄光(えいこう)へと、(しゅ)と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる(しゅ)の働きによるのです。
こういうわけで、私たちは、あわれみを()けてこの(つと)めに(にん)じられているのですから、勇気(ゆうき)(うしな)うことなく、
()ずべき(かく)された事を()て、悪巧(わるだく)みに歩まず、神のことばを()げず、真理を明らかにし、神の御前(みまえ)で自分自身をすべての人の良心(りょうしん)推薦(すいせん)しています。
それでもなお私たちの福音(ふくいん)におおいが()かっているとしたら、それは、(ほろ)びる人々の場合に、おおいが()かっているのです。その場合、この世の神が不信者(ふしんじゃ)の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光(えいこう)にかかわる福音(ふくいん)の光を(かがや)かせないようにしているのです。
私たちは自分自身を()(つた)えるのではなく、(しゅ)なるキリスト・イエスを()(つた)えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに(つか)えるしもべなのです。
「光が、やみの中から(かがや)き出よ」と言われた神は、私たちの心を()らし、キリストの御顔(みかお)にある神の栄光(えいこう)を知る知識(ちしき)(かがや)かせてくださったのです。
私たちは、この(たから)を、(つち)(うつわ)の中に入れているのです。それは、この(はか)り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

(コリント人への手紙第二3章16節-4章7節)

<説教>

①人間の心は(おお)いが()かっていて、自分の力で神を知ることができません。

この手紙を書いたパウロも、昔は神に(さか)らい、キリスト者を迫害(はくがい)していました。しかし、神の光がパウロの心を()らし、よみがえられたキリストと出会い、神を信じる者に変えられました。

②この世の神(悪魔(あくま))が人間の思いに(おお)いを()けて、神を知ることを(さまた)げています。

それは、(ほろ)びる人々の場合に、おおいが()かっているのです。その場合、この世の神が不信者(ふしんじゃ)の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音(ふくいん)の光を(かがや)かせないようにしているのです。

(Ⅱコリント4:3-4

では、人間は神を知り、信じることはできないのでしょうか。

いいえ。悪魔(あくま)は人間の心に(おお)いを()けても、神は、人間の心を光で()らしてくださいます。

人が自分の(つみ)を認め、()(あらた)めるとき、神はそのように働いてくださいます。

③人間は神に心を()らしていただき、キリストを通して神を知ることができるのです。

パウロは、福音(ふくいん)(キリストを信じるなら、人は(すく)われるというよい知らせ)に仕える者とされました。しかし、パウロは言います。

私たちは自分自身を()(つた)えるのではなく、主なるキリスト・イエスを()(つた)えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに(つか)えるしもべなのです。

(Ⅱコリント4:5)

パウロは自分のことではなく、十字架(じゅうじか)に付けられたイエスを()(つた)えました。キリスト者であっても(よわ)く、(おろ)かなものですが、自分のすべての(つみ)(あがな)って((すく)って)くださったキリストにふさわしい生き方へ向かい、変えられていきます。

そのことをパウロは、次のみことばにたとえています。

私たちは、この(たから)を、(つち)(うつわ)の中に入れているのです。それは、この(はか)り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

(Ⅱコリント4:7)

古代(こだい)ローマでは、(つち)(うつわ)金貨(きんか)銀貨(ぎんか)をいれてしまっておく習慣(しゅうかん)がありました。凱旋(がいせん)将軍(しょうぐん)行軍(こうぐん)はこの(つち)(うつわ)をもっていました。

キリストを信じた者も、神の子とされ、天国へいくことを約束された勝利者(しょうりしゃ)です。しかし、この世で苦難(くなん)(なや)みがあり、自分の(よわ)さや(おろ)かさが完全になくなることはありません。

しかし、それであってもキリスト者は偉大(いだい)勝利者(しょうりしゃ)なのです。しかし、その偉大(いだい)さは、彼らの中にある福音、キリストの栄光(えいこう)によるのです。

神の偉大(いだい)さとは、(よわ)い私たちを用いて、偉大(いだい)なことをしてくださることです。パウロはその神のあわれみによって人生が変えられました。神に(つく)られた人間へと回復(かいふく)されたのです。

聖書(せいしょ)は人間を、陶器師(とうきし)である神に(つく)られた(つち)(うつわ)にたとえています。(よわ)くこわれやすい人間であるが、神に(つく)られた(とうと)存在(そんざい)です。(よわ)き小さい私の中に、(くら)べることのできない(はか)り知れない神の(めぐ)み、愛、力が生きているのです。

神は信じるわたしたちの(おお)いを()(のぞ)いて、キリストの(かがや)きを、反射(はんしゃ)させるように私たちを(かがや)かせてくださいます。そして、もはや反射(はんしゃ)でなく、私たちをキリストに()た者へと変え続けてくださるのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは()(のぞ)かれるのです。主は御霊(みたま)です。そして、主の御霊(みたま)のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを()りのけられて、(かがみ)のように主の栄光(えいこう)反映(はんえい)させながら、栄光(えいこう)から栄光(えいこう)へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる主の働きによるのです。

(Ⅱコリント3:16-18

イエス様と最後まで生きる

ヘブル人への手紙12章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月12日

<聖書>

こういうわけで、このように多くの証人(しょうにん)たちが、(くも)のように私たちを()()いているのですから、私たちも、いっさいの重荷(おもに)とまつわりつく(つみ)とを()てて、私たちの前に()かれている競走(きょうそう)忍耐(にんたい)をもって走り続けようではありませんか。
信仰(しんこう)創始者(そうししゃ)であり、完成者(かんせいしゃ)であるイエスから目を(はな)さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に()かれた(よろこ)びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架(じゅうじか)(しの)び、神の御座(みざ)の右に着座(ちゃくざ)されました。
あなたがたは、罪人(つみびと)たちのこのような反抗(はんこう)(しの)ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、(つか)()ててしまわないためです。

(へブル人への手紙12章1-3節)

<説教>

キリスト者として最後まで生きることは、決して簡単なことではないかも知れません。神さまに(したが)って生きるキリスト者は日本でも1%未満(みまん)と言われています。

聖書によるとイエス様の弟子として(したが)うキリスト者の歩みは「競争」なのです。

しかし、ヘブル人への手紙11章にある旧約聖書の信仰者が証人(しょうにん)として、私たちを(はげ)ましてくれます。ただの声援(せいえん)ではなく、最後まで信仰(しんこう)に生きた証人(しょうにん)としてです。

そして、何より父なる神さまに(したが)われたイエス様の信仰(しんこう)により、私たちもまた、このお方を目標として、また指導者(しどうしゃ)として、同伴者(どうはんしゃ)として歩んでいくのです。

旧約の信仰(しんこう)者と同様に、今の時代も罪の世であり、キリスト者として生きやすい所ではありません。

しかし、キリスト者として生きる問題は自分自身にあり、罪と重荷(おもに)を捨てて身軽(みがる)にして、競争を走り続けることが大切です。

ここでの罪とは「不信仰」です。一般的な信仰(しんこう)ではなく、御言葉(みことば)(したが)信仰(しんこう)です。

信仰(しんこう)がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には(むく)いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。                                                   (ヘブル人への手紙11:6)

そのために、イエス様を見上げ続けることです。この方を見るならば、罪によって神さまとの関係を失うことはありません。(つか)れて(すわ)()んでも、また希望(きぼう)と力が(あた)えられます。愛が生まれます。イエス様に()た者へと(つく)り変えてくださいます。

人間の罪によって、イエス様は十字架の苦しみとはずかしめを受けられましたが、よみがえりの先にある、神へつながる救いの道、信仰(しんこう)栄冠(えいかん)(よろこ)ばれました。

世の罪、また自分自身の罪により、苦難(くなん)がありますが、イエス様の信仰(しんこう)によって、栄光(えいこう)の勝利が約束されています。信仰(しんこう)がそれを確実(かくじつ)なものとしてくれるのです。

信仰(しんこう)は望んでいる事がらを保証(ほしょう)し、目に見えないものを確信(かくしん)させるものです。

(ヘブル人への手紙11:1

私たちの本当の(よろこ)びとは、大切な人が(よろこ)んでいることでしょう。そこから(よろこ)びは始まります。イエス様は、あなたを愛されて(よろこ)んでおられます。(よろこ)んでイエス様を見続けましょう。人生のゴールで、必ずイエス様はあなたを(むか)えてくださいます。

私は自分のからだを打ちたたいて(したが)わせます。それは、私がほかの人に()(つた)えておきながら、自分自身が失格者(しっかくしゃ)になるようなことのないためです。

(コリント人への手紙第一9:27

イエス様と共に愛に生きる

ルカの福音書10章25-37節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月5日

<聖書>

すると、ある律法(りっぽう)専門家(せんもんか)が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠(えいえん)のいのちを自分のものとして()けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法(りっぽう)には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『(こころ)()くし、(おも)いを()くし、(ちから)()くし、知性(ちせい)()くして、あなたの神である(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身(じしん)のように愛せよ』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行(じっこう)しなさい。そうすれば、いのちを()ます。」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人(となりびと)とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ(くだ)る道で、強盗(ごうとう)に襲われた。強盗(ごうとう)どもは、その人の着物(きもの)をはぎ取り、なぐりつけ、半殺(はんごろ)しにして()げて行った。
たまたま、祭司(さいし)がひとり、その道を(くだ)って来たが、彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り()ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り()ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、(たび)途中(とちゅう)、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄(ちかよ)って(きず)にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜(かちく)()せて宿屋(やどや)()れて行き、介抱(かいほう)してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋(やどや)の主人に(わた)して言った。『介抱(かいほう)してあげてください。もっと費用(ひよう)がかかったら、私が帰りに(はら)います。』
この三人の中でだれが、強盗(ごうとう)(おそ)われた者の隣人(となりびと)になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

(ルカの福音書10章25-37節)

<説教>

この律法(りっぽう)専門家(せんもんか)は、永遠(えいえん)のいのちを受けるために何を行えばいいのかイエスに質問しました。

すると彼は答えて言った。「『心を()くし、思いを()くし、力を()くし、知性(ちせい)()くして、あなたの神である(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

(ルカの福音書10:27)

このみことばは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)にある律法(りっぽう)です。

「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)

隣人(となりびと)とは(だれ)なのか、どのように愛するのか、その答えがイエスの語られた「良きサマリヤ人」(ルカ10:30-37)の姿です。

律法(りっぽう)専門家(せんもんか)で神に(つか)える祭司(さいし)、レビ人は半殺(はんごろ)しになった人を見て反対側を通り()ぎて行きます。律法(りっぽう)では死人に()れると(けが)れ、神殿(しんでん)奉仕(ほうし)ができなくなる。また、介抱(かいほう)する者が強盗(ごうとう)(おそ)われる手口(てぐち)もよくあり、それを(おそ)れた…

しかし、自分を正しいとするいかなる理由も、神の前では通用しません。

それに対してサマリヤ人は

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中(とちゅう)、そこに来合(きあ)わせ、彼を見てかわいそうに思い、(ルカ10:33)

サマリヤ人のこの「かわいそうに思」う心こそがすべてなのです。この強盗(ごうとう)に襲われた人に対するあわれみの心によって、彼のすべての愛のわざが行なわれたのです。

祭司(さいし)、レビ人もわずかでも同情(どうじょう)があったはずなのです。私たちは、このあわれみを()ざしてはなりません。あわれみによって隣人(となりびと)が生まれるのです。だれかがあなたの隣人(となりびと)なのではありません。大切なのは、あなたが(だれ)かの隣人(となりびと)になれるということです。

この律法(りっぽう)専門家(せんもんか)は、何を行えば永遠のいのちを()るのか、また(だれ)がわたしの隣人(となりびと)なのかとイエスに聞きました。

人は()い行いによっては決して(すく)われません。人は愛を行うものとして神の()姿(すがた)創造(そうぞう)されたのです。()い行いをする神の()せて(つく)られたのです。神さまがあなたに何を(のぞ)んでおられるかを私たちは知っています。

私たちは神の作品であって、()い行いをするためにキリスト・イエスにあって(つく)られたのです。神は、私たちが()い行いに歩むように、その()い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

(エペソ2:10)

もっとも大切なことは愛なのです。同情(どうじょう)するだけではなく、具体的(ぐたいてき)行動(こうどう)(ともな)う愛です。聖書が言う愛は感情(かんじょう)ではなく、態度(たいど)姿勢(しせい)行動(こうどう)決断(けつだん)です。

愛は寛容(かんよう)であり、愛は親切(しんせつ)です。また人をねたみません。愛は自慢(じまん)せず、高慢(こうまん)になりません。礼儀(れいぎ)に反することをせず、自分の利益(りえき)(もと)めず、(いか)らず、人のした悪を思わず、不正を(よろこ)ばずに真理(しんり)(よろこ)びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待(きたい)し、すべてを()(しの)びます。愛は決して()えることがありません。

(Ⅰコリント13:4-8)

心が変われば人は変わります。愛された者は愛します。多く(ゆる)された者は多く愛します。いかなる人もイエスの愛に()れられ罪(ゆる)されたなら、新しい心に変えられ、新しく生きられるのです。

永遠のいのちは、この愛をイエスとともにあらわして生きることです。

イエス様の「あなたも行って同じようにしなさい。(ルカ10:37)」

あなたを新しい生き方に変えるみ言葉です。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法(ふほう)から(あがな)い出し、()いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

(テトス2:14)