反逆する人間に呼びかける神

ヨナ書1章より

土山みことばキリスト教会

2023年10月1日

<聖書>

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
しかしヨナは、【主】の御顔(みかお)()けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃(ふなちん)(はら)ってそれに()り、【主】の御顔(みかお)()けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。
さて、【主】は大風を海に()きつけられた。それで海に(はげ)しい暴風(ぼうふう)が起こり、船は難破(なんぱ)しそうになった。
水夫(すいふ)たちは(おそ)れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって(さけ)び、船を軽くしようと船の積荷(つみに)を海に投げ()てた。しかし、ヨナは船底(ふなぞこ)()りて行って横になり、ぐっすり寝込(ねこ)んでいた。
船長(せんちょう)が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込(ねこ)んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を()めてくださって、私たちは(ほろ)びないですむかもしれない。」

(ヨナ書1章1-6節)

<説教>

1.人間の(つみ)とは神への反逆(はんぎゃく)

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。

「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」                          (ヨナ書1:1-2)

まことの神は、人間に語られます。神を(おそ)れて(つみ)から(はな)れなさいと神は語られます。アッシリアの大都市ニネベの人間の(つみ)に対して神はさばきを下されようとします。

預言者(よげんしゃ)ヨナは、その神の言葉を(あず)かった(伝えるよう(たく)された)のです。

アッシリアは神を(おそ)れず、神を(あなど)り、(つみ)()(らく)して不道徳、殺戮(さつりく)略奪(りゃくだつ)が満ちて、ヨナの国イスラエルを攻め取ろうとしていました。

そんなアッシリアが神に()(あらた)めて、滅亡(めつぼう)から(すく)われることがヨナは我慢(がまん)できませんでした。

人間は自分の考えや都合(つごう)によって、神に素直(すなお)(したが)えないのです。

人間は神に対して(かたく)なで強情(ごうじょう)なのです。聖書によると人間の(つみ)の中心は神への反逆(はんぎゃく)です。

ヨナは神に(したが)わず、神から(はな)れようとします。主の御顔(みかお)を避けようとします。神が命じたニネベへ行かず、タルシシュへ(のが)れようとします。人間は何処へ(のが)れても、神から()げることなどできません。

神はいつも人間がどこにいるのかご存知(ぞんじ)です。

神である【主】は、人に呼びかけ、彼に(おお)せられた。「あなたは、どこにいるのか。」  

(創世記3:9)

神から(はな)れようとすればするほど、人間の状況(じょうきょう)はますます最悪になっていきます。

大風と暴風(ぼうふう)がヨナの船を(おそ)い、ヨナは船の底に下って行き、寝てしまうのです。神から(はな)れるとき、人間は怠慢(たいまん)になり、神に与えられた本当の素晴らしい人生をなかなか生きられないのです。

2.神は人間の応答(おうとう)を求められる

大風や暴風(ぼうふう)で船が難破(なんぱ)しそうになり、人々は命の危険を感じます。そして死を前に、(つみ)を知り、神を恐れるのです。くじを通して、神はこの大嵐はヨナの(つみ)原因(げんいん)だと明らかにします。

(つみ)は単にひとりの悪では終わりません。人と人との関係に深刻(しんこく)影響(えいきょう)を与えます。そして神との関係を引き(はな)します。神から(はな)れるほど、人間にとって恐ろしいことはありません。

イエス様も、十字架に()かられる前に父なる神から(はな)れることに()えられず祈りました。

ヨナは天地を造られた神を信じて恐れていました。

ヨナが神に対して逃げようと反逆(はんぎゃく)した理由は、神の真実を知っていたからでもありました。

神は(つみ)()(あらた)めたニネベの人たちを(ゆる)されることをヨナは知っていたのです。

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご(らん)になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

(ヨナ書3:10)

この世界を創られた唯一(ゆいいつ)の神は、すべての国の人を愛して救うことがおできになります。そして、ヨナは神の前に、自己中心の愛を()(あらた)めます。

ヨナは彼らに言った。「私を()らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この(はげ)しい暴風(ぼうふう)は、私のためにあなたがたを(おそ)ったのです。」

(ヨナ書1:12)

人々は自分の国の神を信じていました。しかし、ヨナの信じる聖書の神は、ヨナの(つみ)を明らかにして、ヨナに苦難(くなん)を与え、ヨナに()(あらた)めを導き、まことの救いを与えられます。

無神論者(むしんろんしゃ)は大きく二つに分かれます。ひとつは、天地を造られた神、唯一(ゆいいつ)の神を否定(ひてい)する無神論者(むしんろんしゃ)です。もうひとつは、否定(ひてい)する神を持たない無神論者(むしんろんしゃ)です。

創造(そうぞう)(しゅ)であるただお一人の神を知っている無神論者(むしんろんしゃ)は、いつでも、まことの神に立ち返るべき神をもっています。

日本は特に、八百万(やおよろず)の神と言って、キツネや大木、石、お天道(てんとう)(さま)など何でも神にします。神道(しんとう)仏教(ぶっきょう)檀家(だんか)制度(せいど)など独特の風土(ふうど)があり、まことの神を知らない人が大勢います。聖書の神こそが、まことの唯一(ゆいいつ)の神です。天地を造られ、今生きて働いて、すべての命を(たも)っておられます。

父なる神は、そのひとり子のイエス・キリストを人間として、この地上に下し、十字架で人間の(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりとしてくださいました。

このキリストの十字架に対して、すべての人間はどう答えるかを神は問われています。

すべての人間は神の前に罪人(つみびと)です。しかし、キリストを信じて(つみ)()(あらた)めるなら、神はあなたの(つみ)(ゆる)して、神の子どもとしてくださいます。まことの神は、あなたの心からの祈りに必ず(こた)えてくださいます。

空の空。すべては空。神なき人生の虚しさ

伝道者の書1章1-14節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月24日

<聖書>

エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者(でんどうしゃ)のことば。
(くう)(くう)伝道者(でんどうしゃ)は言う。(くう)(くう)。すべては(くう)
日の下で、どんなに労苦(ろうく)しても、それが人に何の(えき)になろう。
一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は(しず)み、またもとの上る所に帰って行く。
風は南に()き、(めぐ)って北に()く。(めぐ)(めぐ)って風は()く。しかし、その(めぐ)る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、海は()ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て()きることもなく、耳は聞いて()ち足りることもない。
(むかし)あったものは、これからもあり、(むかし)起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
先にあったことは記憶(きおく)(のこ)っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶(きおく)されないであろう。
伝道者(でんどうしゃ)である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵(ちえ)を用いて、一心(いっしん)(たず)ね、(さぐ)り出そうとした。これは、人の子らが労苦(ろうく)するようにと神が(あた)えたつらい仕事だ。
私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を()うようなものだ。

伝道者(でんどうしゃ)の書1章1-14節)

<説教>

(くう)(くう)。すべては(くう)。」(伝道者(でんどうしゃ)の書1:2)

これは、賢者(けんじゃ)ソロモンの言葉です。ソロモンはイスラエルの王様で、(とみ)知恵(ちえ)において地上のどの王よりもまさっていました。

神さまはソロモンに(とみ)(ほま)れ、知恵(ちえ)英知(えいち)(あた)えられました。しかし、ソロモンは次第(しだい)に神さまから(はな)れて、700人の妻と300人のそばめを持ち、快楽(かいらく)事業(じぎょう)、世の宝を求めるようになりました。

しかし、どんなに栄華(えいが)(きわ)めてもソロモンの心は(むな)しかったのです。

人間とはいったい何でしょうか。この世が考える人間とは一般的(いっぱんてき)に次のように考えられています。

①社会のために働く。

歯車(はぐるま)のような存在(そんざい)

②寝て食べて、子を産む。

(動物的な存在(そんざい)

異性(いせい)との関わりを楽しむ。

(性的な存在(そんざい)

④お金や物質(ぶっしつ)があれば満足(まんぞく)する。

経済的(けいざいてき)存在(そんざい)

⑤世の中の力や運命(うんめい)影響(えいきょう)される小さな存在(そんざい)

宇宙(うちゅう)(こま)

⑥自由な意思(いし)、心がある。

(自由な存在(そんざい)

⑦社会の中で生きる。

(社会的な存在(そんざい)

しかし、これらが十分あっても人間は(むな)しさがあるのです。なぜなら、人間とは神さまに()せて、神さまによって(つく)られた存在(そんざい)だからです。

「神は人をご自身(じしん)のかたちとして創造(そうぞう)された。神のかたちとして彼を創造(そうぞう)し、男と女とに彼らを創造(そうぞう)された。」

      (創世記(そうせいき)1:27)

神さまの意志(いし)によって目的(もくてき)をもって、あなたはこの世に存在(そんざい)しているのです。何かの偶然(ぐうぜん)であなたが今、生きているのではないのです。

神さまに()ているとはどういう意味(いみ)でしょうか。それは、神さまのことがわかり、心の中で神さまと(かた)ったり、お(いの)りしたり、神さまの思いや(ねが)いを知り、それに(したが)うことができる存在(そんざい)なのです。神さまを愛して、礼拝(れいはい)するとき、人間は神さまの目的(もくてき)に生きる者として、本当の(よろこ)びと平安(へいあん)(あた)えられるのです。

たくさんの被造物(ひぞうぶつ)の中で人間だけが、活字(かつじ)(あた)えられ、聖書(せいしょ)を読み、神さまを信じることができるのです。

人間のすべての楽しみや(よろこ)びは神さまが(あた)えてくれるものです。神さまから(はな)れて、それらだけを求めても本当の(よろこ)びはありません。

「実に神はすべての人間に(とみ)財宝(ざいほう)(あた)え、これを楽しむことを(ゆる)し、自分の()ける分を()け、自分の労苦(ろうく)(よろこ)ぶようにされた。これこそが神の賜物(たまもの)である。こういう人は、自分の生涯(しょうがい)のことをくよくよ思わない。神が彼の心を(よろこ)びで()たされるからだ。」  

伝道者(でんどうしゃ)の書5:19-20)

また、神さまは永遠(えいえん)存在(そんざい)されるお方で、人間を永遠(えいえん)存在(そんざい)とされました。だから、この地上のすべての一時(いっとき)の楽しみだけでは、人間は(けっ)して()たされることはないのです。

(くう)(くう)。すべては(くう)。」(伝道者(でんどうしゃ)の書1:2)

ソロモンの(むな)しさは神さまに(したが)わず、神さまから(はな)れたことが原因(げんいん)でした。

(たし)かに人生には(むな)しさと(かな)しみがあります。しかし、それは人間的な視点(してん)に立った人生(じんせい)(かん)です。イエス様の(すく)いの約束(やくそく)福音(ふくいん))を知らない人の人生の真理(しんり)です。神なき人生の(むな)しさです。罪深(つみぶか)い自分を知ったソロモンの結論(けつろん)がこれです。

結局(けっきょく)のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を(おそ)れよ。神の命令(めいれい)(まも)れ。これが人間にとってすべてである。神は、(ぜん)であれ(あく)であれ、すべての(かく)れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」

伝道者(でんどうしゃ)の書12:13-14)

(つみ)()(あらた)めて、イエス様を信じる者は(つみ)(ゆる)されて、神さまと和解(わかい)して新しく生きることができます。そのとき人間は、(はじ)めて(むな)しさから解放(かいほう)されます。

あなたは神さまの()姿(すがた)に神さまによって創造(そうぞう)された高価(こうか)(とうと)存在(そんざい)です。

「わたしの目には、あなたは高価(こうか)(たっと)い。わたしはあなたを愛している。」

(イザヤ書43:4

イエスのように神様に謙遜に生きる

ピリピ人への手紙2章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月17日

<聖書>

こういうわけですから、もしキリストにあって(はげ)ましがあり、愛の(なぐさ)めがあり、御霊(みたま)(まじ)わりがあり、愛情(あいじょう)とあわれみがあるなら、
私の(よろこ)びが()たされるように、あなたがたは一致(いっち)(たも)ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、(こころざし)を一つにしてください。
何事(なにごと)でも自己(じこ)中心(ちゅうしん)虚栄(きょえい)からすることなく、へりくだって、(たが)いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも(かえり)みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構(こころがま)えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿(みすがた)である方なのに、神のあり方を()てられないとは考えず、
ご自分を()にして、(つか)える者の姿(すがた)をとり、人間と同じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって(あらわ)れ、
自分を(いや)しくし、死にまで(したが)い、(じつ)十字架(じゅうじか)の死にまでも(したが)われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお(あた)えになりました。
それは、イエスの御名(みな)によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは(しゅ)である」と告白(こくはく)して、父なる神がほめたたえられるためです。

(ピリピ人への手紙2章1-11節)

<説教>

ピリピの教会(きょうかい)の中には、不一致(ふいっち)不調和(ふちょうわ)があり、自分の野心(やしん)満足(まんぞく)させようとする者、また自分が人々から注目(ちゅうもく)されたいと(ねが)う人々がいました。

パウロは、謙遜(けんそん)でありなさい。自分のことだけでなく、他の人のことを気遣(きづか)うように注意します。自己(じこ)中心(ちゅうしん)自慢(じまん)するために何かをしてはいけませんと教えます。

教会(きょうかい)に集うキリスト者、神さまを信じる者は神さまに従っていかなくてはなりません。そのためには自分の心の中にイエス様の平安がなくてはなりません。しかし、私たちの注目(ちゅうもく)するものが神さまではなくて、自分の欲や高ぶりが心の中にいっぱいであるなら、神さまに(したが)うことは出来ません。

イエス様は、神さまであるのに、人間の姿を取って、この世に来られました。イエス様は、人間として、(くる)しみ、(いた)み、(とぼ)しさ、(まず)しさ、()え、また愛する者から裏切(うらぎ)られ、拒絶(きょぜつ)され、見捨(みす)てられる苦悩(くのう)落胆(らくたん)経験(けいけん)されました。すべてのことを父に(したが)い通されました。

そのすべての(はたら)きの原動力(げんどうりょく)は父なる神さまにお(いの)りしてお話しすることでした。父の御心(みこころ)(したが)うことが出来るように父に(たの)(いの)りました。

そして、(まも)るべきことを(まも)り、(つみ)を犯さず、(つみ)(おか)した者が()けるべき刑罰(けいばつ)の死である十字架(じゅうじか)までも()けてくださりました。十字架(じゅうじか)に付けられたイエス様は人々からあざけられ、からかわれ、さげすまれました。完全(かんぜん)聖書(せいしょ)の言葉を(まも)(したが)われたのです。

そして、死んで三日目に父なる神さまはイエス様をよみがえらせられ、天の父のもとに上げられました。

それは、すべての人がイエス様を信じて、神さまの素晴(すば)らしさを、(よろこ)(たた)えるためです。

神さまを知る前は、人間はむなしいもの、かなしいもの、罪深(つみぶか)いものを見ていました。しかし、神さまはそんな人間に、神さまを見上げてほしいと(ねが)っておられます。

イエス様が父なる神さまに(したが)(いの)って生きる姿(すがた)は、私たちの生き方でもあらねばなりません。

イエス様こそが、本来(ほんらい)の人間の姿(すがた)を私たちに教えてくださっているのです。それは神さまにを信頼(しんらい)して(したが)い、愛を()けて(いの)りながら生きることです。

私たちは、どんな時でも、自分のしたいように(よく)のままに生きることはできます。神さまが私たちの心に(しめ)されることを無視(むし)して生きる選択(せんたく)もあります。しかし、そこには神さまの祝福(しゅくふく)はなく、本当の(よろこ)びはなく、(むな)しさがあり、死の(ほろ)びへつながった道です。自分のことを愛せない生き方です。

しかし、自分を神さまの前に(ひく)く、謙遜(けんそん)に、(まず)しく(むな)しくする者を神さまは(すく)ってくださいます。神さまの前に、(つみ)()(あらた)め、自分を(ひく)くする者、神さまの言われることに(したが)う者は、必ず、神さまが素晴(すば)らしい高みへと引き上げてくださいます。

イエス様を信じて祝福(しゅくふく)()けるために大切なのは、何より素直(すなお)さです。神さまの前にも人に対して謙遜(けんそん)でありましょう。他の人のことを心から(やさ)しく大切に親切(しんせつ)にしましょう。それだけが、イエス様を知る方法です。

イエス様はいのちを与える羊飼い

ヨハネの福音書10章7-15節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月10日

<聖書>

そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに()げます。わたしは(ひつじ)の門です。
わたしの前に来た者はみな、盗人(ぬすびと)強盗(ごうとう)です。(ひつじ)は彼らの言うことを聞かなかったのです。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、(すく)われます。また(やす)らかに出入(でい)りし、牧草(ぼくそう)を見つけます。
盗人(ぬすびと)が来るのは、ただ(ぬす)んだり、(ころ)したり、(ほろ)ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、(ひつじ)がいのちを()、またそれを(ゆた)かに持つためです。
わたしは、良い牧者(ぼくしゃ)です。良い牧者(ぼくしゃ)(ひつじ)のためにいのちを()てます。
牧者(ぼくしゃ)でなく、また、(ひつじ)所有者(しょゆうしゃ)でない(やと)(にん)は、(おおかみ)が来るのを見ると、(ひつじ)()()りにして、()げて行きます。それで、(おおかみ)(ひつじ)(うば)い、また()らすのです。
それは、彼が(やと)(にん)であって、(ひつじ)のことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者(ぼくしゃ)です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様(どうよう)です。また、わたしは(ひつじ)のためにわたしのいのちを()てます。

(ヨハネの福音書10章7-15節)

<説教>

(ひつじ)は、イスラエル人が(もっと)(あい)した動物です。その歴史(れきし)はとても古く、神さまに(つく)られた最初(さいしょ)の人アダムの子どものアベルは(ひつじ)()う者でした。

(ひつじ)は、おとなしく、素直(すなお)従順(じゅうじゅん)です。しかし、(おろ)かで(よわ)く、(まよ)いやすい動物でした。そんな(ひつじ)が生きていくためには、彼らを(みちび)羊飼(ひつじか)い(牧者(ぼくしゃ))が必要(ひつよう)でした。

羊飼(ひつじか)いは(ひつじ)()れを(ぼく)草地(そうち)(みちび)いて食料と水を飲ませます。また、羊飼(ひつじか)いは大切な(ひつじ)たちを(くま)獅子(しし)といった野獣(やじゅう)から(まも)ってくれるのです。

聖書(せいしょ)は、この羊飼(ひつじか)いと(ひつじ)の関係は、神さまと人間の関係であると教えています。

イエス様は、(おろ)かで(よわ)く、(まよ)いやすい人間を正しく(みちび)いてくださいます。そしていのちを(ゆた)かに(あた)えてくださいます。そのいのちとは、イエス様と共に生きる者に(あた)えられる(よろこ)びと平安(へいあん)です。感謝(かんしゃ)して(あい)をあらわして生きることです。

どんなに立派(りっぱ)教師(きょうし)指導者(しどうしゃ)の言うことを聞いても、イエス様が(あた)えるようないのちをいただくことはできません。

(ひつじ)は、羊毛(ようもう)(ウール)、凝乳(ぎょうにゅう)(チーズ)、食肉、天幕(てんまく)(おお)う皮、(かわ)(ぶくろ)角笛(つのぶえ)聖油(せいゆ)を入れる角などいろいろなものに使われます。しかし、代表的(だいひょうてき)用途(ようと)は、神さまに(ささ)げられる、いけにえ((ささ)げもの)です。

イエス様は、羊飼(ひつじか)いでありながら、神さまに(ささ)げられる小羊として、十字架(じゅうじか)で、まことの人間の(つみ)身代(みが)わりの(ささ)げものとして死んでくださいました。

わたしは、良い牧者(ぼくしゃ)です。良い牧者(ぼくしゃ)(ひつじ)のためにいのちを()てます。

(ヨハネ10:10

イエス様は、(つみ)のないきよいご自分のいのちを、お()てになって、(つみ)に死んでいる人間にいのちを(あた)えてくださったのです。

ベテランの羊飼(ひつじか)いは、自分の愛する羊たちの顔と名前を全部(おぼ)えています。50匹ほどの自分の羊たちが全部そろっているか、一目見てわかると言います。

イエス様は、ご自分の愛する子どもたちを知っておられます。その名前をご存知(ぞんじ)です。あなたは名前で()ばれたら嬉しいでしょう。イエス様は、あなたを名前で()んでくださいます。

イエス様は、あなたのすべてを知っておられます。イエス様が、あなたの心の中の秘密(ひみつ)までご存知(ぞんじ)なのはちょっと都合(つごう)が悪いでしょうか。本当の親友や家族とは、自分のいい面だけでなく、そうでない面も知ってもらうことではないでしょうか。

イエス様は、ありのままのあなたを()け入れてくれるお方です。その時、安心と本当の自由と(よろこ)びが湧いてくるのではないでしょうか。それがイエス様が与えてくれるいのちです。

イエス様は、あなたが心から本当に(よろこ)んで、(やさ)しく愛をいっぱいあらわして人生を楽しむことを(ねが)っておられるのです。

イエス様の(ねが)いは、あなたがイエス様を知ることです。

あなたがイエス様を愛して生きることです。この方から(はな)れないで生きることなのです。

聖書(せいしょ)の中にこのことを、(よろこ)んで感謝(かんしゃ)しているみことばがあります。

しゅ】は私の羊飼ひつじかい。私は、乏しいことがありません。
しゅは私をみどり牧場まきばさせ、いこいの水のほとりにともなわれます。
しゅは私のたましいを生き返らせ、御名みなのために、私をの道にみちびかれます。
たとい、死のかげの谷を歩くことがあっても、私はわざわいをおそれません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたのづえ、それが私のなぐさめです。
私のてきの前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私のさかずきは、あふれています。
まことに、私のいのちの日のかぎり、いつくしみとめぐみとが、私をって来るでしょう。私は、いつまでも、【しゅ】の家に住まいましょう。

(詩篇23篇1-6節)

苦難に対して生きる~キリストがくださる人生

ペテロの手紙第一1章18-25節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月3日

<聖書>

承知(しょうち)のように、あなたがたが父祖(ふそ)伝来(でんらい)のむなしい生き方から(あがな)()されたのは、銀や金のような()ちる物にはよらず、
(きず)もなく(よご)れもない小羊のようなキリストの、(たっと)い血によったのです。
キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。
あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光(えいこう)を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰(しんこう)希望(きぼう)は神にかかっているのです。
あなたがたは、真理(しんり)(したが)うことによって、たましいを(きよ)め、(いつわ)りのない兄弟愛を(いだ)くようになったのですから、(たが)いに心から熱く愛し合いなさい。
あなたがたが新しく生まれたのは、()ちる(たね)からではなく、()ちない(たね)からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
「人はみな草のようで、その(さか)えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに()(つた)えられた福音(ふくいん)のことばがこれです。

(ペテロの手紙第一1章18-25節)

<説教>

神さまに(つく)られた最初(さいしょ)の人アダムは神さまに(そむ)き、神さまから(はな)れて生きるようになりました。神さまの言われることに(したが)うことができず、正しいことも、悪いことも自分で決めて生きようとしたのです。

聖書(せいしょ)にある通り、これが(つみ)の始まりです((つみ)堕落(だらく)と言います)。

それ以来(いらい)、すべての人間はこのアダムの(つみ)影響(えいきょう)(ふか)()けています。(だれ)もこの(つみ)から(のが)れて生きることができないのです。

しかし、聖書(せいしょ)約束(やくそく)(どお)りにイエス・キリストがお生まれになりました。約2000年前に、キリストが十字架(じゅうじか)()かって死なれ、三日目によみがえり、人間が(つみ)から(すく)われる道を(あた)えてくださいました。

今日読んだペテロの手紙第一という聖書(せいしょ)書簡(しょかん)は、この罪深(つみぶか)い世界の中で生きるクリスチャンに対しての手紙です。

イエス様を信じるキリスト者は、神さまに(したが)って生きようとする時、必ず試練(しれん)迫害(はくがい)があります。

それは、ただイエス様を信じるという理由(りゆう)によるのです。(つみ)の世は(やみ)なので光であるイエス様、クリスチャンを(こば)みます。

しかし、手紙の作者であるペテロはどのように生きるべきかを(つた)えて(はげ)まします。

① どれだけ頑張(がんば)っても()()せなかった罪深(つみぶか)い生き方から(すく)い出されたことを思い出しなさい。

すべての人は、(つみ)を犯したので、神からの栄誉(えいよ)()けることができず、ただ、神の(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる(あがな)いのゆえに、(あたい)なしに()(みと)められるのです。 

(ローマ3:23-24)

(あがな)いとは、(つみ)支配(しはい)から自由にされることです。そのためにキリストが十字架(じゅうじか)で私たちの(つみ)の身代わりとなられました。キリストがあなたの(つみ)の代わりに十字架(じゅうじか)で死なれたことを信じる者は、(つみ)から(すく)われます。人間が(すく)わるのはこれ以外(いがい)方法(ほうほう)はありません。

② キリストに(したが)うことによる試練(しれん)や苦しみは、やがて神さまに必ず(むく)いられる。

あなたがたの信仰(しんこう)試練(しれん)は、火で精錬(せいれん)されつつなお()ちて行く金よりも(たっと)く、イエス・キリストの(あらわ)れのときに称賛(しょうさん)光栄(こうえい)栄誉(えいよ)になることがわかります。

(Ⅰペテロ1:7

神さまは、すべてをご存知(ぞんじ)です。特にあなたがキリストを信じて、(したが)った生き方に称賛(しょうさん)(あた)えてくださいます。キリストのために生きる者は、必ず神さまが正しく(むく)いてくださると信じて生きることができます。

そして、この世の終わりの日にキリストがもう一度、来られることを信じます(これを再臨(さいりん)と言います)。

(あがな)いとは、(つみ)支配(しはい)から自由にされることです。そのためにキリストが十字架(じゅうじか)で私たちの(つみ)の身代わりとなられました。キリストがあなたの(つみ)の代わりに十字架(じゅうじか)で死なれたことを信じる者は、(つみ)から(すく)われます。人間が(すく)わるのはこれ以外(いがい)方法(ほうほう)はありません。

③ キリストに(したが)うことによる試練(しれん)や苦しみは、やがて神さまに必ず(むく)いられる。

あなたがたの信仰(しんこう)試練(しれん)は、火で精錬(せいれん)されつつなお()ちて行く金よりも(たっと)く、イエス・キリストの(あらわ)れのときに称賛(しょうさん)光栄(こうえい)栄誉(えいよ)になることがわかります。

(Ⅰペテロ1:7

神さまは、すべてをご存知(ぞんじ)です。特にあなたがキリストを信じて、(したが)った生き方に称賛(しょうさん)(あた)えてくださいます。キリストのために生きる者は、必ず神さまが正しく(むく)いてくださると信じて生きることができます。

そして、この世の終わりの日にキリストがもう一度、来られることを信じます(これを再臨(さいりん)と言います)。

神のいのちは死に打ち勝つ

ヨハネの福音書11章17-27節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月27日

<聖書>

17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは(はか)の中に入れられて四日もたっていた。
18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど(はな)れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて(なぐさ)めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて(むか)えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「(しゅ)よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお(もと)めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを(しん)じる者は、死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを(しん)じる者は、決して死ぬことがありません。このことを(しん)じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい。(しゅ)よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と(しん)じております。」

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)11章17-27節)

<説教>

<ラザロの死>

イエスにとって、ラザロとその姉妹マルタ、マリヤは家族のようにゆっくりとやすめる故郷(ふるさと)のようでした。その愛するラザロが死んだことは、家族にとって大きな(かな)しみでした。
イエスご自身もラザロの死を(かな)しみ、家族や()()いの人たちと同じように(なみだ)を流されました。
イエスは神でありながら、人としてこの世に(つか)わされました。神に泣いたりする感情があるのはおかしいでしょうか。聖書(せいしょ)に書かれる、まことの神は、人間を愛され、(かな)しまれたり、(よろこ)ばれるお方なのです。

<イエスはラザロをよみがえらせた>

死の(かな)しみに()れる家族の前で、イエスはラザロを死からよみがえらせました。
死の恐怖(きょうふ)におびえる人たちに、神は死に()()つことができることを知ってもらいたかったのです。
イエスは愛する者を死からよみがえらせることがお出来になるのです。愛する者とは、すべての人間です。神はすべての人を愛して、イエスを信じていのちを(あた)えたいのです。
死んでから4日()ったラザロのよみがえりは、イエスが人間の(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死なれて、3日目によみがえることの「しるし」です。
神だけが、人類(じんるい)最後(さいご)(てき)である「死」も(ほろ)ぼされるお方です。

キリストの支配(しはい)は、すべての(てき)をその足の下に()くまで、と(さだ)められているからです。最後の(てき)である死も(ほろ)ぼされます。

(Ⅰコリント15:25-26

<イエスはなぜよみがえったのか> 

1.人間を死の支配(しはい)から解放(かいほう)するため

すべての人間にとって死は不気味(ぶきみ)()けることのできない(わざわ)いです。人間はこの死を()()ろうと努力してきました。医療(いりょう)(いた)みを()(のぞ)いたり、不気味(ぶきみ)墓地(ぼち)のイメージを○○○メモリアルという名前で明るく、楽しい雰囲気(ふんいき)にしたりします。
しかし、それは死の(おそ)ろしさの裏返しです。いくら目をそらしても死が(おそ)ろしい証拠(しょうこ)です。死は人間から希望(きぼう)()()り、人生に大きな(かげ)()げかけ、そのため人間は正しく、きよく、愛をもって生きることができません。どうせ、死んだら終わりだと考えて、欲望(よくぼう)のまま生きてしまうのです。
イエスはよみがえりであり、いのちです。神だけが人間を死から解放(かいほう)して、いのちを(あた)えることができるのです。イエスは死んで、よみがえりました。それは決して死ぬことはない、神のいのちです。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔(あくま)という、死の力を持つ者を(ほろ)ぼし、(いっ)生涯(しょうがい)死の恐怖(きょうふ)につながれて奴隷(どれい)となっていた人々を解放(かいほう)してくださるためでした。

(へブル人への手紙2:14-15)

2. (ふる)い人、(つみ)性質(せいしつ)が死んで、神のいのちを()けて新しく生まれるため

イエスを信じる者は、十字架(じゅうじか)で死なれたイエスとともに、(ふる)い人も死に、よみがえられたイエスとともに、永遠(えいえん)のいのちを(あた)えられて新しく生まれ変わることができるのです。
イエスの死は、私たち人間の死とは(ちが)います。人間の(つみ)身代(みが)わりに死なれたのです。これは人間にはできません。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく(つく)られた者です。(ふる)いものは()()って、見よ、すべてが新しくなりました。

(Ⅱコリント5:17)

 3.日々、(つみ)に打ち勝って生きる力が(あた)えられるため

(つみ)に対して弱く、(つみ)奴隷(どれい)であった私たちが、イエスの復活(ふっかつ)のいのちが私たちの内で(はたら)かれて、(つみ)に打ち勝つ力によって日々歩めるようになります。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに(ほうむ)られたのです。それは、キリストが御父(おちち)栄光(えいこう)によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

(ローマ6:4

すべての人間にはやがて肉体(にくたい)の死を(むか)えます。しかし、すべての人間は神に()を向けて生きた(つみ)によって刑罰(けいばつ)の死があるのです(永遠(えいえん)の死、第二の死)。これは永遠(えいえん)(ほろ)びであり、愛の神から永遠(えいえん)(はな)れてしまう(おそ)ろしい永遠(えいえん)孤独(こどく)です。
イエスを信じるなら、この永遠(えいえん)(ほろ)びの死から(すく)い出されます。イエスを信じる者の肉体(にくたい)の死は、永遠(えいえん)のいのちが始まるための、一瞬(いっしゅん)()()る入口に()ぎません。

どんなに生きることが(くる)しくても、死は(すく)いではありません。イエスを信じることだけが(すく)いの道です。

苦しみから与えられる慰め

コリント人への手紙第二1章4-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月20日

<聖書>

4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを(なぐさ)めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける(なぐさ)めによって、どのような苦しみの中にいる人をも(なぐさ)めることができるのです。
5 それは、私たちにキリストの苦難(くなん)があふれているように、(なぐさ)めもまたキリストによってあふれているからです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの(なぐさ)めと救いのためです。もし私たちが(なぐさ)めを受けるなら、それもあなたがたの(なぐさ)めのためで、その(なぐさ)めは、私たちが受けている苦難(くなん)と同じ苦難(くなん)()()く力をあなたがたに与えるのです。
7 私たちがあなたがたについて抱いている(のぞ)みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、(なぐさ)めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に(はげ)しい、()えられないほどの圧迫(あっぱく)を受け、ついにいのちさえも(あやう)くなり、
9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟(かくご)しました。これは、もはや自分自身を(たの)まず、死者をよみがえらせてくださる神により(たの)む者となるためでした。
10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという(のぞ)みを、私たちはこの神に置いているのです。

(コリント人への手紙第二1章4-10節)

<説教>

キリストを信じる前のパウロは、自分自身により(たの)み、キリスト者たちを迫害(はくがい)して苦しめて暴力(ぼうりょく)をふるう者でした。パウロは神を信じていても、現実は自分の力を(ほこ)って生きていたのです。現実の生活では神に従っていなかったのです。
(つみ)とは神から(はな)れて、自分に(たよ)って生きる状態です。人生が自分のためにあると思うことです。そこから現実にあらわれる罪深(つみぶか)言動(げんどう)によって、私たちは苦しみ、それは解決することなく、(ほろ)びへと向かいます。たとえ自分で苦しみを解決しても、自分の力を(ほこ)り、高ぶるようになることも多くあります。
しかし、神を信じる者の苦しみは、キリストがお受けになった苦しみを共にすることです。みことばに従って、愛に生きる者の苦しみです。苦しみによって自分の弱さを教えられます。
神はその苦しむ者を(なぐさ)め、ますます神をより(たの)む者へと(つく)り変えて、キリストに()た者へと内から変えてくださいます。
そして、苦しみの中にあるパウロは、苦しみの中にある教会の人々を(なぐさ)め、ともに成長する家族のように生きていきます。苦しみも(なぐさ)めもキリストにあって一つなのです。以前のキリストを迫害していたパウロもまた、兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)たちの(なぐさ)めと愛によって、キリスト者として(むか)()れられたのです。
パウロは自分の意思によって使徒になったのではなく、神の御心(みこころ)によって使徒になったという確信がありました。これが、どんな苦境(くきょう)困難(こんなん)に出会っても、めげることのない理由だったのです。

私たちの大祭司(だいさいし)は、私たちの弱さに同情(どうじょう)できない方ではありません。(つみ)は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、(こころ)みに会われたのです。                                                             

(ヘブル人への手紙4:15)

キリストの十字架(じゅうじか)を信じて、(つみ)(ゆる)しを与えられた者の特徴(とくちょう)は、素直(すなお)さ、謙虚(けんきょ)さです。
表面的な良い人ではありません。キリストを愛して生きようとする時、自分をごまかしたり、いかなる言い訳もむなしく感じられるのです。キリストは私たちの心の中を気付かせてくださいます。そして、愛することだけが、神を信じて(したが)うことだと教えてくださいます。
そのように生きようとする時、私たちはキリストの苦しみを共にするのです。
苦しみを経験した者は、他の誰かが受けた同じ苦しみを理解することができます。苦しみを経験した者は(なぐさ)めることができるのです。
キリストは父なる神様に(したが)われ、(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)に架かられました。(つみ)を犯すこと以外は、すべての人間の受ける苦しみを経験されました。
このキリストは、あなたの苦しみを経験され、あなたを理解して(なぐさ)めてくださる方です。そして、その苦しみを通して、愛とまことの人にあなたを変えてくださります。喜びと平安、人を愛する価値ある人生を与えてくださいます。
パウロは言います。

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒(しと)パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒(せいと)たちへ。                             (Ⅱコリント1:1)

キリストを信じて生きるあなたは、神の教会の、使徒(しと)聖徒(せいと)なのです。いつも神はあなたと共におられます。

十字架の祈り

ルカの福音書23章32-46節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月6日

<聖書>

32 ほかにもふたりの犯罪人(はんざいにん)が、イエスとともに死刑(しけい)にされるために、引かれて行った。
33 「どくろ」と()ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人(はんざいにん)とを十字架(じゅうじか)につけた。犯罪人(はんざいにん)のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35 民衆(みんしゅう)はそばに立ってながめていた。指導者(しどうしゃ)たちもあざ(わら)って言った。「あれは他人を(すく)った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を(すく)ってみろ。」
36 兵士(へいし)たちもイエスをあざけり、そばに()って()て、()いぶどう(しゅ)()()し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を(すく)え」と言った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた(ふだ)もイエスの頭上(ずじょう)(かか)げてあった。
39 十字架(じゅうじか)にかけられていた犯罪人(はんざいにん)のひとりはイエスに悪口(あっこう)を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを(すく)え」と言った。
40 ところが、もうひとりのほうが(こた)えて、彼をたしなめて言った。「おまえは(かみ)をも(おそ)れないのか。おまえも同じ刑罰(けいばつ)を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの(むく)いを()けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国(みくに)(くらい)にお()きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに()げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地(ぜんち)(くら)くなって、三時まで続いた。
45 太陽は光を(うしな)っていた。また、神殿(しんでん)(まく)()(ぷた)つに()けた。
46 イエスは大声で(さけ)んで、言われた。「父よ。わが(れい)御手(みて)にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

(ルカの福音書23章32-46節)

<説教>

「どくろ」と()ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人(はんざいにん)とを十字架(じゅうじか)につけた。犯罪人(はんざいにん)のひとりは右に、ひとりは左に。

(ルカの福音書23:33)

イエスの死が極悪(ごくあく)犯罪人(はんざいにん)刑罰(けいばつ)である印象(いんしょう)を人々に持たせようとしました。イエスは悪人として処刑(しょけい)されました。イエスの着物は()がされ、着物はローマ兵がくじで分け合いました。
あざけり、からかい、(にく)しみとねたみに満ちた人々…
イエスを殺害(さつがい)しようとしたユダヤ宗教家(しゅうきょういえ)は、十字架(じゅうじか)に付けられたイエスを目の前に、自分たちの勝利(しょうり)確信(かくしん)しました。

「父よ。彼らをお(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

(ルカの福音書23:34)

そんな彼らにイエスは祈られました。
イエス様の十字架(じゅうじか)受難(じゅなん)は、ルカの福音書の中で、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)が多く引用(いんよう)されています(詩篇22、詩篇69)。
どれだけ知恵(ちえ)をこらして、策略(さくりゃく)を建てて、イエスを十字架(じゅうじか)(ほうむ)()ろうとしても、神さまはすべてご存知(ぞんじ)で、はるか昔に聖書ではっきり預言(よげん)していたのです。
そんな人間の(おろ)かさ、罪深(つみぶか)さ、神から(はな)れて(ほろ)びへ向かう姿に、イエスは彼らの、いえ人間すべてに対して父なる神さまに(ゆる)しを()うて祈ったのです。
すべての人のために、今もイエス様は(つみ)(ゆる)しを祈っておられます。
十字架(じゅうじか)の上の左右の犯罪人(はんざいにん)の一人は、神を(おそ)れず、自分の罪深(つみぶか)さがわからず、自分がわかりません。ただ今の状況からの(すく)いだけを願います。彼が信じるのは自分の心だけです。
しかし、もう一人の犯罪人(はんざいにん)は、自分の罪深(つみぶか)さを知り、()(あらた)めて、神を(おそ)れ、今の(すく)いだけでなく、永遠の(すく)いを祈ったのです。
彼は間もなく死を(むか)えるでしょう。しかし、たとえ死の間際(まぎわ)でも(おそ)くはないのです。イエス様の十字架(じゅうじか)は私の(つみ)身代(みが)わりであると信じて、()(あらた)めて、(つみ)に背を向けて、神さまに心を向けて生きようとする者を神は「きょう」(すく)ってくださいます。

「イエスさま。あなたの御国(みくに)(くらい)にお()きになるときには、私を思い出してください。」                                                

    (ルカの福音書23:42)

彼の祈りは正直でした。自分のことを(おぼ)えていてください。私を(わす)れないでくださいでした。私は愛されているのでしょうか?私は何のために生まれたのでしょうか?私の人生これでよかったのですか?
すべての人間には(つみ)があり、神さまとの関係を失いました。この不安と(おそ)れが人生を支配(しはい)しています。
競争きょうそう)に勝っても、欲しいものを手に入れても、どんなに頑張(がんば)っても、その不安と(おそ)れは消えません。
その解決(かいけつ)のためには、失われた神さまとの関係を回復(かいふく)和解(わかい)するしかありません。
この犯罪人(はんざいにん)は、自分が受けている十字架(じゅうじか)刑の()(がた)い苦しみ(いた)みを、静かに受けられ、自分を苦しめる人々のために静かに祈られるイエスを神さまであると信じました。自分の十字架(じゅうじか)刑罰(けいばつ)をイエス様は代わりに受けてくださっているとわかったのです。
そして、(みじ)めな十字架(じゅうじか)刑で人生を終わろうとする自分の罪深(つみぶか)さを()(あらた)めて、イエス様を受け入れたのです。
その瞬間(しゅんかん)、イエス様が彼と共におられ、神さまとの関係が回復(かいふく)しました。彼の絶望(ぜつぼう)後悔(こうかい)、すべての(つみ)(ゆる)され、彼の心は開かれ、(おそ)れは祈りとなりました。
イエス様はあなたを決して(わす)れることはありません。あなたがすべての人間の(てき)だとしても、すべての人があなたを(わす)れたとしても。
イエス様はあなたを愛されています。十字架(じゅうじか)の上であなたの(つみ)(ゆる)しを祈って、それを()()げてくださいました。

そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの(つみ)をその()()われました。それは、私たちが(つみ)(はな)れ、()のために生きるためです。キリストの()(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者(ぼくしゃ)であり監督者(かんとくしゃ)である方のもとに帰ったのです。

(Ⅰペテロ2:24-25)

悪魔の力に打ち勝つ

マルコの福音書5章1-20節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月30日

<聖書>

1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2 イエスが舟から上がられると、すぐに、(けが)れた(れい)につかれた人が墓場(はかば)から出て来て、イエスを(むか)えた。
3 この人は墓場(はかば)に住みついており、もはやだれも、(くさり)をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
4 彼はたびたび足かせや(くさり)でつながれたが、(くさり)を引きちぎり、足かせも(くだ)いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。
5 それで彼は、夜昼となく、墓場(はかば)や山で(さけ)び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
6 彼はイエスを遠くから見つけ、()()って来てイエスを(はい)し、
7 大声で(さけ)んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名(みな)によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
8 それは、イエスが、「(けが)れた(れい)よ。この人から出て行け」と言われたからである。
9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願(こんがん)した。
11 ところで、そこの山腹に、(ぶた)大群(たいぐん)()ってあった。
12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを(ぶた)の中に送って、彼らに()(うつ)らせてください。」
13 イエスがそれを(ゆる)されたので、(けが)れた(れい)どもは出て行って、(ぶた)()(うつ)った。すると、二千匹ほどの(ぶた)の群れが、(けわ)しいがけを()け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
14 (ぶた)()っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。
15 そして、イエスのところに来て、悪霊(あくれい)につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
16 見ていた人たちが、悪霊(あくれい)につかれていた人に起こったことや、(ぶた)のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。
17 すると、彼らはイエスに、この地方から(はな)れてくださるよう願った。
18 それでイエスが舟に()ろうとされると、悪霊(あくれい)につかれていた人が、お(とも)をしたいとイエスに願った。
19 しかし、お(ゆる)しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、(しゅ)があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな(おどろ)いた。

(マルコの福音書5章1-20節)

<説教>

湖の向こう岸はゲラサ人の地でした。まことの神さまから(はな)れた異邦人(いほうじん)の世界です。
そこに(けが)れた(れい)に取りつかれた男が次のような姿でいました。

① 家に住まないで墓場(はかば)に住んでいた。
(人から(はな)れて社会性を失っている状態でした)
②    何度も(くさり)と足かせでつながれたが、(くさり)を引きちぎり足かせを(くだ)いていた。
(非常に狂暴(きょうぼう)な姿でした。誰も彼を押さえつけることはできませんでした)
③    夜も昼もずっと墓場(はかば)や山で(さけ)び続けていた。
(彼の(たましい)は助けを(もと)めていました)
④    石で自分のからだを(きず)つけていた。
(自分の価値(かち)(わす)れて、自分を健全(けんぜん)に愛せずにいました)
⑤    長い間、着物も着ず裸でした。
理性(りせい)、人間性を(うしな)っている状態でした)
彼は自分の中に悪霊(あくれい)が働いていることを知っていました。レギオンという名前の悪霊(あくれい)は、ローマ軍の6千人で編成(へんせい)される軍団(ぐんだん)のように多数で強い力で男を(しば)ってしました。誰も彼を助け出すことはできませんでした。彼も自分の力ではこの悪霊(あくれい)をどうすることもできませんでした。それはユダヤが圧倒的(あっとうてき)な力でローマに支配されて、ローマの軍隊が、悪事(あくじ)を働き、人々を苦しめている状態でした。
イエス様が舟から上がってきたのを見た時、男はイエス様を(むか)えにいきます。どんなに悪霊(あくれい)の力が強くても、まことの(かみ)さまの力を信じることが大切です。イエス様がこの地上に来られたのは、悪魔(あくま)を打倒すためなのです。

(かみ)の子が現れたのは、悪魔(あくま)のしわざを打ちこわすためです。(Ⅰヨハネ3:8)

イエス様を信じる者は、いたずらに悪魔(あくま)(おそ)れることはありません。しかし、悪魔(あくま)の力を(あなど)ってはいけません。(たし)かに(つみ)(おか)させようとする力は存在(そんざい)するのです。キリスト者生活を最後までやり()げることは、悪魔(あくま)との戦いでもあると言えるからです。
悪霊(あくれい)たちは(かみ)の子イエス様に自分たちを追い出さないでくださいと願いました。堕落(だらく)した道徳の(みだ)れたこの世界は悪霊(あくれい)にとって住みよい環境(かんきょう)なのです。聖書は、毎日が邪悪(じゃあく)な日であり、今は悪い時代だと言います。
悪霊(あくれい)はサタン(悪魔(あくま))の手下(てした)で、この世で大勢(おおぜ)い活動しています。人や動物に入り、(かみ)の働きや、計画を(さまた)げようとします。サタンは、24時間365日ずっと、破滅(はめつ)させることができる人々を(さが)して歩き回っています。

()(つつし)み、目をさましていなさい。あなたがたの(てき)である悪魔(あくま)が、ほえたける獅子(しし)のように、()()くすべきものを(さが)(もと)めながら、歩き回っています。

(Ⅰペテロ5:7

この御言葉(みことば)の記者ペテロにとって、「目をさましていなさい」は(わす)れることのできないイエス様のことばです。悪魔(あくま)がペテロを征服(せいふく)して、イエス様を(こば)ませたことを(わす)れませんでした。
悪魔(あくま)()えたけるライオンのような凶暴性(きょうぼうせい)破壊性(はかいせい)によって、イエス様を信じる信仰(しんこう)(うしな)わせようとします。
しかし、イエス様によって信仰(しんこう)を守られたペテロは初代(しょだい)教会(きょうかい)で力強くイエス様を(あかし)する者に変えられます。彼は(かく)(しん)して言います。

(かた)信仰(しんこう)に立って、この悪魔(あくま)に立ち向かいなさい。ご承知(しょうち)のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

(Ⅰペテロ5:8

イエス様の(かみ)権威(けんい)あるみことばによって、このゲラサ人の男に取りついた(けが)れた(れい)は追い出されました。彼は正気(しょうき)に返り、家に帰り、着物を着て、(かみ)の救いを言い広め始めます。それはゲラサ人の地、デカポリス、ギリシャの植民地(しょくみんち)異邦人(いほうじん)の地でキリストの救いのみわざはこの男性から広がっていくのです。

問 人の主な目的(もくてき)はなんであるか?
答 人の主な目的(もくてき)(かみ)栄光(えいこう)をあらわし、(かみ)永遠(えいえん)に喜ぶことである。

ウエストミンスター小教理問答の第一問目
(プロテスタンキリスト教会の信仰(しんこう)基準(きじゅん)

心配しないで生きる

マタイの福音書6章25-34節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月23日

<聖書>

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配(しんぱい)したり、また、からだのことで、何を()ようかと心配(しんぱい)したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物(きもの)よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔(たねま)きもせず、()()れもせず、(くら)(おさ)めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを(やしな)っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配(しんぱい)したからといって、自分のいのちを少しでも()ばすことができますか。なぜ着物(きもの)のことで心配(しんぱい)するのですか。野のゆりがどうして(そだ)つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、(つむ)ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華(えいが)(きわ)めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾(きかざ)ってはいませんでした。きょうあっても、あすは()()()まれる野の草さえ、神はこれほどに(よそお)ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の(うす)い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を()るか、などと言って心配(しんぱい)するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人(いほうじん)が切に(もと)めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要(ひつよう)であることを知っておられます。だから、神の国とその()とをまず第一に(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて(あた)えられます。だから、あすのための心配(しんぱい)無用(むよう)です。あすのことはあすが心配(しんぱい)します。労苦(ろうく)はその日その日に、十分あります。

(マタイの福音書6章25-34節)

<説教>

神を信じない異邦人(いほうじん)は食べ物のこと、着物のことを心配(しんぱい)します。将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)します。

しかし、どれだけ心配(しんぱい)しても決して問題の解決(かいけつ)にはなりません。かえって体や精神的に悪いことさえあります。ほとんどの病気はストレスが原因だと言われています。

人間の心配(しんぱい)は、完全に信頼(しんらい)する存在、神を信じないことが原因です。神さまを(みと)めないならば、すべての起こりうる心配(しんぱい)は自分でどうにかしなくてはいけないのです。それは(つみ)(おか)して神様から(はな)れてしまった人間の生き方となってしまいました。

では心配(しんぱい)しないためにどうすればいいのでしょうか。

①     自然の生きものの姿を見て学ぶ。

イエス様は働かなくていいとは言っていません。鳥も働いています((すずめ)などは働き者で有名です)。しかし将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)する鳥や花はいません。しかし、神さまはそんな鳥を毎日(やしな)い、一日で()れてしまう花でさえも、最高の美しさで(よそお)ってくださいます。鳥や花より(すぐ)れた人間を神さまが(やしな)ってくださらないはずがありません。

②    神さまがすべてを支配(しはい)して(まも)ってくださることをいつも(おぼ)えて、そこに自分を()いて生活する。

イエス様は一番大切な(まも)るべきことは自分を愛するように隣人(となりびと)を愛することだと言われます。愛の心を持って(だれ)かを思いやって生きる。(だれ)かのために生きるとき自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。信仰(しんこう)をもって神さまのことばを実践(じっせん)するとき、自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。

③    今日を精一杯生きて、明日の心配(しんぱい)はしない。

いくら明日を心配(しんぱい)しても私たちが生きることができるのは今日だけです。今日という日を(つみ)から(はな)れて正しく、感謝して生きることに(つと)めましょう。

もし、あなたが今までの人生をすべて、事前(じぜん)に知らされていたら、今日まで生きてこられたでしょうか。今までたくさんの苦労(くろう)試練(しれん)があったことでしょう。しかし、あなたは、何が起こるか知らないで、心配(しんぱい)せずに生きてきましたが、今日まで生きて来られたのです。

神さまはあなたを(まも)(やしな)ってくださったのです。

だから、神の国とその()とをまず第一に(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて(あた)えられます。

マタイの福音書6:33

このみことばは聖書の中でも、とても素晴(すば)らしい約束の一つです。神の国とは神の支配(しはい)される領域(りょういき)をあらわします。神さまのご支配(しはい)される御国(みくに)の中で生活しようと(つと)め、神さまのみことばに(したが)って生きることを何より第一に(もと)(つづ)けるなら、必ず、神さまがあなたの必要を(そな)えてくださいます。

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりを自分の(つみ)身代(みが)わりと信じる者は、そのような生き方に変えられます。あらゆることを心配(しんぱい)しながら単独(たんどく)で生きる人生から、神さまと心が(むす)()けられるのです。

あなたのすべての(つみ)(ゆる)してくださった神さまは、愛をもって、あなたのすべての心配(しんぱい)もご自身の心配(しんぱい)事として引き受けてくださいます。

あなたがたの(おも)(わずら)いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配(しんぱい)してくださるからです。

Ⅰペテロ5:7