愛をもって心から仕える
〜「これは天罰なんですかね…」〜
今回は熊本地震のニュースを聞き、すぐに駆けつけて5日間ボランティアとして、仕えて来られたM牧師の率直な感想を紹介させて戴きたいと思います。
“ぼくは熊本県生まれ熊本県出身なのでどうしても他人事と思えず、じっとしておれずに、自分が役に立つかもわからないまま、何をすればいいのかもわからないまま、ボランティアに参加させていただきました。
益城町の人々が物資の配給や炊き出しを取りに来られる姿、また崩れた家屋を雨の中、座り込んで片付けておられる人々の姿を見るにつれ、敗戦後の日本人が途方に暮れていた姿に見えてきて涙が出ました。僕の母親と父親の青春時代はこうだったのかと想像し、また泣きました。
そして、被災されている方々が自分の家族のように思えてとてもいとおしく、「怖かったね」「つらかったね」とついつい話しかけ、涙がこみ上げてくることが何度もありました。
ある方に水と食料を差し上げて、「こわかったでしょう」と話しかけると、「これは天罰なんですかね。噂では震度8の地震が最後にやってくると言われているんですけど、本当なんですかね。」と聞かれました。「天罰なんかじゃありません。熊本の人だけが特別に罪深いことってあるわけないでしょう。きっと、何が本当に大切なものなのかを考えるためだと僕は思いますよ。」と答えました。
多くの人々が心の深いところに恐れと不安を持つようになっています。表面ではがんばりますと言っていますが、心の深いところに深い亀裂が入っていると感じます。
僕が接することのできた方々の心を代弁するとすれば、地というしっかりした動かないものと思っていたものが前触れもなく、激しく揺れ動くとすれば、いったい何を頼りにすればいいのだろうか?揺れ動かないものってあるのだろうか?
人生で一体何が大切なんだろうか?物質主義のはかなさ。すべてが不確定であること。その中で、人の愛と思いやりの大切さなどでしょうか。
あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。ヘブル12:26~28
ぼくは奉仕をさせていただきながら、イエス様が僕たちを愛する家族と思い、ぼくたちをそのままにしておくことができずに、ぼくたちのために自ら進んで苦しみ、孤独、拒絶、そして死をも体験してくださって、その後の埋葬、復活、昇天を通して僕たちに永遠の命を与えてくださったことばかりを自然に考えていました。
僕がクリスチャンとして強く感じたことは、もちろん水も、物資も、お金も大切です。しかし、クリスチャンにしかできない。もっと大切なことは苦しんで途方に暮れている人々を上から助けてあげるなどと決して思わず、聖霊様の助けをいただいて、同じ気持ちで、できればさらにしもべの立場になり、友達になり、家族になり、この苦しみの中で人々が神の無条件の愛と哀れみに触れることができるように、共に祈って上げ、そしてどんなに小さいことでもいいので、自分にできることをすることではないかと思いました。
神の愛があふれて自発的に内側から動機づけられて為されるボランティアであり、奉仕であり、援助であれば、それは本当に価値のあるものであり、人々の心に届き、神様が喜んでくださるものだと感じました。
クリスチャンのボランティアを通じて被災された方々のひとりでもいいので神の愛の形であるキリストの存在を知り、キリストに出会い、永遠の命を得て、その核心を握り、何が起こっても動じない生き方を送るようになること。そして、もはや自分のためではなく、自分を愛して命までも捨てられたキリストを愛し、また地上にいる間はキリストのように隣人を愛する人生を送り始める。そんな人が一人でも一家族でも起こされればどんなにか素晴らしいだろうと思いました。
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。伝道者7:2
上記の御言葉にあるように僕は先週の短い日々の中で、書物や学校では学び得ない何かとっても貴重なことを学ぶことができたように思えます。今週骨休めをして、また来週、何かお役に立てればと思い、教会の兄弟と一緒にボランティアを予定している次第です。”
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