母の思い出

公開済み 5月 9, 2016 by 管理人 in アドナイ・エレ

〜母の日に寄せて〜

私の母は、土木技師の父が田舎で道や橋を作るのを生き甲斐としていたこともあって、永年田舎暮らしを強いられました。

母が父と結婚したときは戦時中で、父は満州の鴨緑江(現北朝鮮と中国の間を流れる大河)ダム建設に携わっていました。終戦になって着の身着のままで命からがら1歳の兄を連れて日本に帰ってきました。

その後、父が種子島で土木事業を始めることになり、種子島の西之表に引っ越しました。そこで次男の私が生まれたのです。しかし、父の事業は失敗し、父と母は行商みたいなことをはじめ、町で仕入れた品物をさらに辺鄙な地域にもって行って売ることによって生計を立てていました。

もともと母は商売が好きなうえ、女子高時代は珠算でトップの成績を収めるほど珠算が得意だったので、肉体的、経済的苦労の中でも喜んでやっていたように聞いています。

その後、父が屋久島の役場の土木技師として要請を受けたことにより、父は先に屋久島に渡り、母は後で私たち小さい二人の子供を連れて屋久島に移住して行きました。

当時屋久島は種子島とは全く違って、ほとんど未開の地で電気も水道もないところでした。母はそのことを何にも聞かされてなくて、移ってきてから驚いたと幾度も言って聞かせてくれました。そして母はそこで、3男を出産しました。

水汲み場まで水を汲みに行き、また洗い物を持って洗いに行き、薄暗いランプ灯りの下での生活は大変だったろうと思います。残念ながら私にはそのころの記憶はほとんどありません。ただ近所に気の荒い羊がいて、いつも私たちを見ると突進して来るので、何度も突き飛ばされた記憶だけが残っています。

私が小学校に上がったころ、公営住宅に引っ越しました。そこには、電灯はきていましたが、まだ水道はひかれていませんでした。母は食事が終わると数軒先にあった共同井戸に食器等を持って行き、近所の奥さん方と何やら楽しそうに話しながらいつも洗い物をしていました。

ただ、この井戸は海が近いので塩分が強く、飲用には適さなかったので、飲水は私たちが近所の子供達と連れ立って学校まで汲みに行っていました。

ここの公営住宅は、大きな川べりにあり景色は最高なのですが、台風が来るたびに床上浸水するので、学校の講堂に近所の人達皆で避難しました。私達は両親の心配をよそに、子供で集まって走り回って遊んでいました。問題があっても親と一緒なら子供達はなんにも心配しないで、遊んでいられるんだと思います。

しかし台風一過、父と母は近所の人達と冗談を言って笑いながら汚れた我が家を井戸から水を汲んできては流し、また組んでは流しして汗びっしょりになって大掃除をしていました。

母はどこに引っ越しても必ず父に鶏小屋を作ってもらい、鶏を飼いました。お陰で私たちはいつも新鮮な卵が食べられました。台風の時は屋根裏に鶏を上げて逃げました。

実は母は船酔いが激しかったので、舟に乗るのをとても嫌がっていました。母は口癖のように「屋久島が一歩幅でも鹿児島と陸続きになっていたら良いのに。」と言っていました。もしそうだったら母は何日かかっても歩いたことでしょう。それほど舟に乗るのを嫌がっていました。

船が嫌いな母が苦労の多い島の生活を続けながら私たちを優しく育ててくれたことに心から感謝しております。特に私は小さい頃から自由奔放なところがあって母に大変苦労をかけました。母からも「お前には苦労させられた。」と後々までも言われました。晩年私は母と一緒に過ごすことが出来ました。私達夫婦の願いは母が天国に行くことでしたが、それが妻の見た幻によって叶えられたと確信できました。神様母を有り難うございました。

正しい者の父は大いに楽しみ、知恵のある子を生んだ者はその子を喜ぶ。あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。箴言23:24~25

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