中学校文化祭
~バベルの塔と言葉の混乱~
先月、中学生がいつもより早く登校し始めたので、「どうして早いの、朝練?」と聞いてみました。すると、「違います。文化祭の練習です。」との返事が帰ってきました。
そうか、そういう時期なんだ~と思いながら、「ところで、文化祭で何するの?」と聞いたら劇をするとのこと。「何の劇?」と聞くと、「おじちゃん、見に来るの?来るんだったら教えられない。」と言います。
そうか、予め内容を教えたら、当日の楽しみが薄れてしまうことを心配してるんだろうなと思いつつも、なんとなく内容が気になり、当日は何とか時間を作って見に行くことにしました。
文化祭当日、先日出前授業した体育館に行くと、様相が一変し後ろの方には生徒達が作った作品が並び、その前方に保護者席、ステージ下に生徒席が作られていて、全ての窓は黒い幕で覆われており、そこにはすでに大勢の生徒、保護者が集まっていました。
今年の文化祭のテーマは『コミュニケーション』、スローガンは「みんなで話せば世界が変わる」となっていました。
そして、会が始まると最初に実行委員会のオープニングセレモニーがあり、コミュニケーションが上手く取れなくなった原因として、バベルの塔の話が出てきました。バベルの塔は聖書の創世記に出てくる話で、人々がレンガを造ることを覚えた時、彼等は傲慢になって天まで届く塔を建てようと計画し、それを始めます。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」創世記11:3~4
石がレンガに変わり、粘土がアスファルトに変わったぐらいで、彼等は神にも届く塔を立てることができると考え始めたほど、単純で高慢になってしまいました。そこで、神はその傲慢を打ち砕くために、彼等の塔造りを止めさせ、そして同じ言葉を使っていた人々が違う言葉を語るようにされ、世界に散らされました。
こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。創世記11:8~9
つまり、実行委員会では、人はバベルの塔を機にコミュニケーションがうまくできなくなっていった様子を映像と彼等の演技で表していました。
次に1年生の劇「長袖少女の2つの願い」がありました。内容は目先の利便性を追求するための自然破壊、森林伐採への提言と木材の犠牲?によってできた机などを大切に扱うことを勧めるものでした。
次の2年生の劇は『戦争と平和~私たちが伝えていくこと~』と題して、修学旅行で長崎に行ってそこで教えられた戦争体験について演じられました。
それは、卒業式途中で空襲警報がなり皆が防空壕に逃げ込むときに、B29からの機銃掃射によって多くの友達が死んでいったこと、生き残った先生もその後の原爆で亡くなられたこと等を解りやすく伝え、戦争の悲惨さを訴えるものでした。
徹底したコミュニケーションによって、自然破壊や、悲惨な戦争を回避できるのではとの提案だったと思います。
残念ながら、午前中のみで午後の部には用事で参加できませんでしたので、3年生の劇と先生方の出演を見ることは出来ませんでしたが、午前の部を拝見しただけで、彼等が朝早く登校して努力したことには大きな意義があったと思いました。
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