この花だれが造ったの?
~おじちゃん、これ上げる~
朝子供たちが登校する途中で道端に咲いている可愛い花々を発見し、思わずそれらの赤い花・黄色い花を摘み、小さな小さな花束を作りました。その花束を親指と人差し指で挟んで持って歩きます。別段それをどうしようというのでなく、ただ可愛い花が咲いていたので思わず摘んで花束を作ったという事なのでしょう。
持って歩いているうちに、いつもの交差点に来るといつものおじさん(わたし)が黄色い旗をもって安全指導をしています。そこで、「おじちゃん、これ上げる。」と言って小さな小さな花束をおじちゃんに半ば強引に上げました。
おじちゃんはしばらく片手の親指と人差し指でその花束をはさんで、もう一つの手には横断用の旗を持って子供たちの安全指導をしていますが、小さな花束でも片手がふさがると、どうにも不便なのでそのうちにすぐ後ろの20センチほどの低いブロック塀の上に置いて、安全指導を続けました。
そして、子供たちの登校の安全を見終わると、花束のことはすっかり忘れて、塀の上に置いたまま家に帰ってしまいました。あくる日、塀の上を見ると小さな小さな花束はしおれて枯れています。
神様は道端に咲く小さな花々、気付かずに踏んずけられるかもしれない花々をも赤や黄色の綺麗な花びらで装い、毎年同じ場所に咲くようにそれらに命を与えて生かしてくださいます。
私達の周りには、桜やユリやチューリップ、ヒマワリやバラや菊の花、その他にも計り知れない程のたくさんの色とりどりの花々があり、いろいろな時期に美しく咲いて、私たちを慰め喜びや幸せを与えてくれています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださる(のです)。マタイ6:29~39a
これ等の花々が偶然綺麗な色や花びらを持ち、良い香りを放っているのではありません。これらは神の作品であって、神の私たちへの愛の表明なのです。
例えば、枕元に置いて寝た1枚の折り紙が、朝起きると鶴の形に折られていたら、誰も偶然やたまたまだとは思いません。夜の内に誰かが来て折って置いて行ったのだと思い、「この鶴だれが折ったの?」と尋ねることでしょう。
しかし、それよりはるかに美しく複雑な装いの花が朝起きて咲いているのを見ても、「自然に咲いた」の一言で済ませてしまいます。花にしても動物にしても命あるものはみな、人知をはるかに超えたお方が最初に造られ、それが子孫を残すようにされたので、私たちはそれを見ているのです。
なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。ローマ1:19~21
天地万物の造り主なる神をあがめ、感謝することは、全ての人がするべき最も基本的なことなのです。
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