アダムとエバって幸せ?
~真面目に聞いてなくてごめんなさい~
息子の高校時代の先生が本を出版され、その中に息子のことを書いてくださったので、我が家にも1冊贈ってくださいました。本には先生が校長として立たれた高校での入学式や卒業式、また朝礼等で語られたことが書かれてありました。
流石に国語の先生だけあって、沢山の本を読んでおられるようで、教えられることがたくさんあり素晴らしい内容の本でした。読ませていただきながら、先生方は入学式や卒業式、それに朝礼等のお話をこんなに真剣に準備され、私達に話してくださっていたのに、私はいつも「早く終わらないかな~」と思って余り真面目に聞いていなかったことを、たいへん申し訳なく、またもったいなく感じました。
しかし、お話の中にひとつだけ私と違うお考えを持っておられるのかなという部分がありました。それは旧約聖書のアダムとエバについて、「彼らは幸せだったのか、そうでなかったのか」という生徒たちへの問でした。
先生のお答えは、「幸せでも不幸でもない」でした。それは、人は他との比較によって幸せを実感するものだから、比較する対象がない彼らにとっては、幸せや不幸を感じることはなかっただろうと言うものでした。
先生としては人と比較する生き方に警鐘を鳴らす目的があったのだと思います。しかし、アダムとエバが罪を犯す前は、神様との愛の交わりがあり、そこは神様からの愛と喜びと平安で満ちていて、まさしく地上の楽園・パラダイスでした。彼らは真の幸せを体験していたのです。
例えば、素敵な恋人ができ、その人と一緒の時を持ち、親しい交わりをするだけで人との比較ではなく、幸せを感じます。反対に他の人より能力があり、容姿も良く、裕福な生活をしていても、心に悩みや思い煩い、不安・恐れがあれば幸せは感じられないでしょう。
アダムとエバは、エデンの園では不安や恐れがなく、喜びと平安で守られていました。しかし、彼等が神に反逆し罪を犯してしまった時に、彼等の中に肉の働き、すなわち以下の様なものが入ってきたのです。
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。ガラテヤ5:19~21a
人が神から離れ、神無き世界を自分勝手に生き始めた結果、人に不安、恐れ、悩み、苦しみが入り、そして上にあるようなものが私たちの行いとして出てきたものです。これらのものが私たちを不幸にしてきました。
しかし、神様はもう一度私たちに最初のアダムとエバの時にあったような幸せを与えるために、罪からの救い主として、御子を贈ってくださいました。そして、信じる者をもう一度恵みの中に置いてくださいました。罪からの解放によって再び神と繋がることによって、現れてくる実が以下の様なものです。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。ガラテヤ5:22~23
私が神様の存在を知り、信じた時に心の中に、なんとも言えない喜びと平安が入ってきました。こんなに素晴らしい世界があるのに何故違う道を歩んできたのだろう。私はこの喜びと平安を人々に伝えるために会社を辞めて牧師になろうとすぐ決心しました。
しかし、私自身が以前は胡散臭く思っていた世界であり、実際信じないと体験できない、体験しないとわからない世界なので、なかなか受け入れてもらえない悩みもありますが、一人でも多くの人に、人との比較でない幸せ・心の内の平安と喜びを体験していただきたいと思い活動しています。
No Response to “アダムとエバって幸せ?”