障害者スポーツの父

公開済み 11月 4, 2018 by 管理人 in アドナイ・エレ

~前向きに生きる~

先日の新聞に女子高校生が障害者スポーツの車椅子バスケットボールの試合を見に行った様子が投稿されていました。車いすをすごいスピードで自由自在に操り、互いに激しくぶつかり合い、それで車いすごと転んでもすぐ自力で起き上がりすぐ試合に戻っていた。

彼らの腕は鍛えられて筋骨隆々として力強く、足の不自由さをカバーしており、選手たちがその為日々努力を積み重ねている様子がわかり、彼女が今まで障害者に対して持っていた、手足を自分の思い通りに動かせない不自由さから、つらく悲しい日々を過ごしているであろうとの思いが一変した様子が書かれていて、彼女自身が前向きに生きていくことの大切さを教えられたことが書かれていました。

わが国で障害者スポーツが行われるようになったのは、国立別府病院整形外科科長であった中村裕博士のご尽力によるところが大きいのです。

中村先生は1960年2月から約7ヶ月間リハビリテーションの研究を目的にアメリカおよびヨーロッパに派遣されました。そして、イギリスのストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷者センターでスポーツを医療の中に取り入れて、残存機能の回復と強化を訓練し治療するのを目の当たりにし強い衝撃を受けました。多くの脊髄損傷患者がこれらの治療・訓練を受け、6ヶ月という短期間の内に社会復帰していたのです。中村博士はこの手法を日本で実践する決意をして帰国しました。

しかし、まだ「治療は安静が中心」の日本では、関係者全員が「患者にスポーツをさせること」に反対しました。そんな中、中村博士は自分の患者や医師・体育関係者・県庁・身体障がい者などを熱心に説得し、「大分県身体障害者体育協会」を設立、1961年10月22日に「第1回大分県身体障害者体育大会」を全国で初めて開催しました。(社会福祉法人 太陽の家 > 中村裕博士と障がい者スポーツより)

中村博士は障害者にはスポーツはできないとか、障害者を見世物にする気かと激しく怒鳴られ罵られながらも、諦めないで根気強く説得して回りました。そして、ついに博士の尽力によって、1962年5月、東京パラリンピックの準備委員会が開かれ、その席で博士は第11回ストーク・マンデビル競技大会への参加を強く訴えました。その結果、選手派遣は満場一致で決定されましたが、肝心の旅費がなく、中村博士は自分の愛車を売ってそれに充てました。

そのような博士の涙ぐましい自分を犠牲にした障害者への愛の働きによって、今やたくさんの障害者が生き生きとスポーツを楽しみ、リハビリによって機能回復し、生きがいを持って生活できるようになりました。

真の愛とは人の幸せのために自分をどれだけ犠牲にできるかではないかと思わされました。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。Ⅰヨハネ4:9

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ13:34~35

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。Ⅰヨハネ4:7

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