真の幸せへの道
~大政・小政?~
先週の話は、私たち家族が屋久島に引っ越した1950年頃のことで、私たちが住んだ貸家は、お風呂やおトイレが家の外にあったので、それらを使用するためには一度外に出ないといけなかったということ等を書きました。
その後、引っ越した公営住宅は本土から転勤して来られた学校の先生方や役所の方が住んでいた住宅で、島の中では比較的恵まれた環境にありましたが、そこでも水道等はなくて、水汲みの必要だけでなく炊事やお風呂のための薪も必要で不便なことも多々ありました。
しかし、先週お話しした、父が会社設立に誘われた東京の会社がその後大きな企業に成長して、有名なセメント会社をも持つようになっており、屋久島にカーバイト・耐火煉瓦工場を作ることになりました。
そこで、島内に水力発電所を建設し、工場をはじめ屋久島全体の電気を供給できる施設を作りました。当時、島は人1万、サル1万、シカ1万の合計3万?なんて言われていました。〈九州全体は九州電力が電気の供給をしているのに、屋久島だけは今も屋久島電工が配電を担っています。〉
そこで公務員だった父は役場を辞めて、その屋久島電工に移ることになり、1959年・昭和34年、私が小学5年生の時、会社の中に社宅ができ、私たちは引っ越すことになりました。引っ越した家は広い敷地に、有名なセメント会社が造った鉄筋コンクリートのモダンな家で、電気会社なので冷蔵庫・洗濯機・炊飯器等電化製品が揃っており、水洗トイレにもなっていてまるで都会の一角にいるような環境の変化に興奮しました。
しかし、その興奮も長くは続かず、すぐその環境にも慣れて当たり前になってしまいました。たぶん金持ちがどんな豪邸に住んでも、すぐ慣れて感謝と喜びはそう長く続かないのではないかと思います。
さて、家の周りの住宅は皆都会から引っ越してきた人々が住んでいて、我が家の隣は私と同級生のU君の家でした。彼は学校一のノッポで、いつも私と一緒にいたので、私は特に小さいわけではないのに、担任の先生からは大政・小政と呼ばれていました。
また、私の家の数軒先にも同じ学年のYさんの家がありました。二人とも私と違って成績は常に学年トップで、高校は鹿児島市内の有名進学校T高に入っていきました。鹿児島市内に屋久島の会社の子弟寮があり、私たちは皆その寮から通学しました。
その後、U君は京都の大学に行き、NHKのアナウンサーになりました。Yさんは東京の大学に行き、大学教授の奥さんになりました。私は福岡のミッションスクールに行き、妻と知り合い、彼女の影響もあり、やがてクリスチャンになって牧師になりました。
他の二人みたいに華々しい?人生ではありませんでしたが、天地の支配者なる神様、私たちの創造主なる神を知り、人生の生きる意味を見出し、そこから人生が一変しました。
様々な経験をしましたが、妻と知り合いクリスチャンになったことによって、それらすべてが良きものに変えられました。
人は皆、創造主なる神様から離れて、自分勝手に生きているので、人生の目的を見いだせず、ただ目先の出来事に一喜一憂して生活しています。しかし、わたしは創造主なる神を知ったことによって、周りの環境に動かされない喜びと平安を持ち、真の幸せを得ました。
そして、一人でも多くの人に、この真の平安と喜びを与えてくれる神の存在を伝えようと勤めていた会社を辞め牧師になりました。
私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。・・・あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。詩篇16:8~9、11
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