気遣いの実践者
~ラッキー??~
先日、鹿児島県の北部、さつま町(旧宮之城)の教会で、親しい先生方が集まって共に礼拝し、お互いの教会の課題を祈り合い、昼食を頂きながら楽しい語らいの時を持ちました。
集会には私たち夫婦で出かけました。朝方まで雨が降っており、1日雨の予報だったので、雨の中での行動を覚悟していましたが、行きも帰りも雨には合わず、熱くもなく寒くもない曇り空の1日で、帰りながら夫婦で「申し分のない好い天気になって良かったね」と話しました。
また、鹿児島市内に近づくと、ニュースで「本日市街地は10メートルほど先が見えないほどの桜島の降灰に見舞われている」ということでした。それで、前夜から朝方まで降り続いた雨で濡れた車等は灰がついてかなり汚れてしまっているようでした。
ラッキー、前日は用事で市街地に出かけていましたが、今日は集会で遠出して、帰りも市街地は通らず少し離れた高速を走ってきたので、降灰に見舞われることなく、灰をかぶり汚れた車を横目で見ながら家に帰りました。
もし、車が灰をかぶったら洗車しなければなりません。こびりついた灰は水で流す程度では流れてくれません。かといって、むやみにブラシでこすると灰が鋭利な形をしているので車を傷つけてしまいます。しかし、そのような他人の大変さを知りながら、自分だけ降灰を免れたことにラッキーと思ったことを反省しました。
私たちはどうしても自分を中心に物事を見てしまいます。桜島が噴火したらこっちの方に来てくれるなよと思います。ということは、向こう岸の方だったら良いということになってしまいます。
天気の良い日で窓を開けている時に降灰があったら大変です。家じゅう灰でザラザラになってしまいます。そして、街を歩いていたら容赦なく灰が襲ってきます。傘など差してもほとんど役に立ちません。灰は目に入り、髪はザラザラ、そして洋服は灰色になってしまいます。
それでつい、他所に行ってくれたらと思ってしまいますが、噴火した以上どこかに落ちてくるわけですから、誰かが被害を受けるわけで、自分だけ良ければの見方に気を付けなければと思います。
また、私は朝子供たちの登校の見守りをしておりますが、子供たちの雨降り時の登校は大変です。傘を差していてもズボンやスカートがずいぶん濡れていたり、時には車に水を飛ばされてシャツまで濡れたりします。ですから、いつも雨が降らなかったら良いなと思います。
しかし、先日久しぶりに激しい雨の中での登校に、何とか雨が止んでくれないかなと思いながら子供たちの見守りをしていたら、農家の方が通りかかり、嬉しそうに「良か雨な~。」と語りかけ通って行かれました。
そうだ農家の方にとっては久しぶりの雨、自分の都合ばかりではなくもっと周りを見て広い視野を持たないといけないと考えを改めさせられました。
私に限らず、すべての人が大なり小なり自己中心の見方をしていると思います。それが他者への批判になったり、果ては争いになったりします。いつも他者の見方で見られるようになりたいものだと思います。
日本には「思いやり」や「気遣い」という素晴らしい言葉があります。その意味をかみしめて、それの実践者になりたいと思います。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。ピリピ2:3~5
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