持久走大会
~苦労の先の幸せ体験~
小学校での持久走大会が、子供たちの通称《上グラ》で行われる日が来週に迫ってきました。小学校の裏山には体育館や野球場、テニスコートなどがあり、毎年小学校ではそこに移動して持久走大会が行われます。そのために子供たちは今、毎朝早めに学校に行って学校のグラウンドで大会に備えて走る練習をしています。
5~6年生は上グラの周りを1周する1600メートルの距離走ります。当日を楽しみにする子もいますが、概してあまり当日が来るのを喜んでいないように感じます。例年寒い中、保護者の方々もたくさん応援に来られ、子供たちの真剣な走りに声援を送ります。
私も時々応援に出かけますが、私は早い子より、遅れて後ろの方から苦しそうに顔を歪めながら頑張って走ってくる子にいっそう力を入れて声援を送ります。それは、たぶん小さい頃の自分をダブらせて見ているからだと思います。
私自身も長距離は苦手で、いつも後ろの方から走る方でした。そこで、持久走大会は遅いのでいやだという子たちには、「おじちゃんも遅かったから分かるよ。順番は気にしないで最後まで頑張って走りなさい。」と声を掛けます。
私自身は、スポーツ自体は決して不得意ではなく、何でもそれなりに上手くこなしていたのですが、長距離走だけはとても苦手にしていました。私は、瞬発力はあって短い距離だったらそれなりに走れるのですが、持久力がなくて長くなると足が途中から上がらなくなるのです。これは私の足の造りに問題があるのだと思っていました。
私の足は太くて短くて甲が高いので、相撲などの安定感を必要とするものは得意としており、小学時代の放課後はほぼ毎日、学校の相撲場にみんなで集まって相撲をしており、近所のおじさんたちから「若乃花~」と声をかけられて、得意になっていました。
しかし、その自慢の太い短い脚も長距離になると、俄然足を引っ張るようになり、しばらく走ると悲鳴を上げ始め思うように走れなくなってしまいました。
スポーツはそれなりに何でもこなせた分、長距離走の時の友達の後ろからドテドテ走る自分がなんとも情けなく、中学生になると遅い仲間同士で「皆でゆっくり走って一緒にゴールしよう」なんて話し合うのですが、いざその時になると皆協定を破ってそれぞれ走り出すので、みんなで一緒にビリというのはなかなか上手くいきませんでした。
しかし今思うと、その時何番だったかなどは人生には何にも関係なかったんだなと思います。大切だったのはその時ベストを尽くせたかどうかで、たとえその時良い成績を残せなかったとしても、ベストを尽くした結果であれば満足も成長もできたのだと思います。
今、マラソン大会が全国各地で行われています。ここの近くでも1月に指宿の菜の花マラソンがあり3月に鹿児島マラソンが開催されます。どちらも沢山の人が参加して走られます。そして、その殆んどが一般市民で、みんなで順番を競い合うものではなく、それぞれが楽しんで走っておられます。
お金を払ってまで長時間走られるのは、その苦労の先に充実感や達成感、ひいては生き甲斐や幸せを実感することができるからだと思います。
楽(らく)して楽(たの)しくではなくて、あえて苦労してその先の幸せを体験できるような前向きな人生を送りたいと思います。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5:3~5
No Response to “持久走大会”