子供たちの何でも屋さん
おじちゃん。これ落ちてた。
午後3時半、ピンポーンと教会の呼び鈴がなります。何時もだったら学校帰りの子供たちがトイレを借りに来たり、ちょっと休憩で寄ったりする時間ですが今は夏休み中、子供たちが来ることはないはずなのにと思いながら玄関に出ると、小学6年生の女の子が2人小さな猫を抱いて立っていました。
「どうしたの?」と聞くと、「夕方バレーの練習があってそこに行く途中なんだけど、来る途中お墓の近くの草むらの所で、この猫が1匹泣いていたの。たぶん捨て猫だと思うんだけど、ねぇねぇ、どうしたらいい?」
「どうしたらいい?」って聞かれても即座に名案は浮かばない。返答に困っていると、一人の子が「ねぇ、電話貸してくれない?」言ったので、「あ、いいよ。」言って近くにある内線の子機を持って来て貸してあげました。
自分の家に電話してるみたいで、しきりに可哀そうな子猫を放っておけないので、飼って良いか交渉しているみたいでした。しかし、交渉は決裂したみたいで、がっかりした顔をして子機を返してきました。私が「どうだった?」と聞くと、「家では飼えない。すぐ、元あった所に返してきなさい。」と言われたとの事。
しかし、このまま返したら死んでしまうかもしれないし、かわいいまだ小さい子猫です。家で飼えないことが分かると、今度は「教会で飼ってくれない?」と言ってきました。「いや、残念ながら、教会では飼えないよ。」というと、もうバレーの練習時間が迫ってるし、しょうがないから交番に届けようと言いながら大切そうに猫を抱きかかえて、学校や交番のある方に向かって歩いて行きました。
数日後の出校日に、登校してきた彼女たちに「あの猫はどうなった?」と聞くと、「あ、あれはKちゃんが飼ってくれると言ってくれた」とのこと。私も何だかホッとしました。
このように子供たちは道で拾った落とし物を何でもすぐ教会に持ってきます。小さな捨て猫を拾って持って来たのもこれが初めてではありません。数年前にもやはり同じようなことがありました。
また、子供たちの落とし物で多いのが、ランドセルにぶら下げてある小さな飾り物です。「これが落ちてた。」って、持ってきます。「誰か子供の物だから学校の落とし物に持っていきなさい。」と言うのですが、「ここを通る誰かなんだからおじちゃんが渡して。」って言って置いて行きます。しょうがないので、明くる日は「誰かこれ知らない?」って、通る子供たちに聞きます。「あ、それ○○ちゃんのだ。」というと、「○○ちゃんに持って行ってあげて。」と言って渡します。
他にも絵本袋や帽子、ハンカチやマスクなどまであります。また、「お金が落ちてた。」と言って持ってきたことも何度かあります。「交番に届けなさい。」と言うけど「いやだよ。」と言われてしまいます。交番も5円10円の落とし物を持って来てもらっても困るようなことを聞いたので、「教会で1年に1度、世界でご飯を食べられない人にお金を集めて送ってるんだけど(私が日本国際飢餓対策機構のアンバサダーをしている)、それに入れて一緒に送っても良い?」って聞くと、「良いよ」って言ったので、一緒に送らせていただきました。
私を落とし物処理係の便利屋さんのように思ってるのかも。兎に角、何でも人の役に立てるのだったらできることはしてあげたいと思います。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。マタイ7:12
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