迷子のごとき人の姿

公開済み 11月 1, 2020 by 管理人 in アドナイ・エレ

~あなたの創造主を覚えよ~

迷子の多い順に1番がショッピングセンター、次がテーマパークだそうです。ショッピングセンターの迷子は、親が買い物に夢中になって子どもがはぐれてしまうパターンが多いと思います。一方、テーマパークの方は子供の方が楽しそうな遊具を見つけて自分から親元を離れていくパターンが多いのではと思われます。

迷子になった子がよそ行きの上等な服を着て、片手に前から欲しがってた大好きなおもちゃ、もう片手にも親にねだって買ってもらった美味しいお菓子を持っている。それでも、彼はちっとも喜んでいないで、ただ泣いています。それはもちろん親が一緒にいないからです。迷子になったこの子の問題の解決は、ただひとつ親元に返すことだけです。

これと全く同じことが私たちに言えるのです。人は皆何らかの問題を抱えて生きています。はた目にはどんなに幸せそうに見えても、みんな色々悩み苦しみを持ちながら生きています。徳川家康の名言に「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。」とありますが、まさにその通りです。

人がどんなに素晴らしい物に囲まれて、人がうらやむような豊かな生活をしていても、やはり重荷が消えることはないのです。持ち物が私たちを幸せにするのではありません。素晴らしい環境が私たちを幸せにするのでもありません。どんなに贅沢をしても、どんなに権力を持っても、どんなに有名になって名をはせても、そんなものでは決して真の幸せを得ることはできないのです。

昔、中東にソロモン王という偉大な王様がいました。彼は栄華を極めたと言われ、彼の時代は、銀は値打ちがなかったと言われるほど、周りの国々から献上される貢物としての金で満ちていました。

彼は、真の幸せを得るために贅沢の限りを尽くしました。彼の食器はすべて金にしました。彼は楽しみのために池を作り素敵な庭園を造りました。そして男女の歌うたいを作り、彼らに歌わせました。そして、300人の正妻と700人のそばめを手に入れました。また財力に任せて事業もやりました。その結果、彼は次のように告白しています。

私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。伝道者2:10~11

そのように彼が権力や財力に任せて様々な挑戦をした結果、彼が見出した結論は、造り主のもとに帰らないと決して真の幸せ、平安や喜びは得られないという事だったのです。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。伝道者12:1

これは親元を離れた迷子の子供が、大好きなテーマパークに来ていて、欲しがっていたおもちゃやお菓子を持っていても決して幸せの要素としての平安や喜びがないのと一緒です。ただ、彼にとっては親元に帰ることだけがすべての解決なのです。そのように、人は神様のもとに帰って初めて平安と喜びが得られます。また、神様がおられるという事は、そのような生き方をしないと、後で「しまった。」では済まされないことでもあるのです。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。伝道者12:13~14

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