日本のパラスポーツの始まり
~ 障がい者を見世物にする気か ~
コロナ禍で抑圧された2年間のうっ憤を晴らすかのような日本スポーツ選手団の金メダルラッシュに興奮と明るい希望を見出した東京五輪が無事閉幕しました。
しかし、その間のコロナ感染者の爆発的な増加によって、五輪観戦どころではなく昼夜休みなく治療のために奮闘して下さった医療従事者には、心からの感謝を申し上げます。そして、未だに感染者の急増は留まることを知らず、息つく暇もなく治療に奔走しておられることを心苦しく思います。1日も早くコロナが収束して、ゆっくり休めるようにお祈りいたします。
さて、今月24日から東京パラリンピックが開催されます。手足その他に障害を持たれた方々が、明るい表情で各人の持てる能力をいかんなく発揮して、大会に臨まれる姿には感動を覚えます。
私の小~中学生の頃は、障がい者はそれぞれの家庭で隔離されて、町で見かけることはほとんどありませんでした。また、見かけても周りからの憐みの視線を浴びて可哀想でした。そして、当時はまだ戦争で障害を負った方々が、虚無僧の姿をして生活費を支援してもらうために街頭に立っている姿を見ることもありました。彼らは生涯、人の世話を受けて生きていかなければいけない存在と見られていました。
それが今、パラリンピックを通してみる選手たちの、前向きで力強く競技に打ち込み、障害を全く感じさせない活躍と、明るい笑顔に感動を覚え、多くの活力をいただいております。
しかし、彼らが日本でパラ競技に打ち込めるようになった背後には、中村裕博士の並々ならぬ艱難と偏見との戦いがありました。1960年中村氏がパラスポーツの重要性を訴えた当時は、日本ではまだ、障害を隠して生活することが常だったので、中村氏の提唱に対して「障がい者を見世物にするのか。」と強い批判を浴びました。
しかし、彼はリハビリテーションの研究の目的で派遣されたアメリカやイギリスで、障がい者のリハビリとしてスポーツ医療を取り入れ、残存機能の強化と回復のために訓練し治療する姿に感銘を受け、彼は日本でも是非それを取り入れて、障害を持った人々が夢と希望を持って、健常者と変わらぬ活動をする社会の達成を目指し、決して諦めませんでした。
彼はまず、地元の大分で自分の患者や医師、体育関係者、県庁、障がい者などを熱心に説得して回り、「大分県身体障害者体育協会」を設立して、1961年10月に「第1回大分県身体障害者体育大会」を全国で初めて開催しました。
次に、彼は1964年の東京オリンピック後のパラリンピック開催を求めて、厚生省(当時)や関係機関を説得して回りましたが、反応は芳しくありませんでした。しかし、彼は1962年の第11回ストーク・マンデビル競技大会への参加を強く訴え、許可を得ました。そこで、2名の障がい者を出場させるために、自分の愛車を売って旅費を工面し出場しました。
すると、この大会に日本からの参加があったということが世界に大きく報道されたので、厚生省もリハビリテーションの推進に力をいれることになりました。そして、1964年11月、東京オリンピック終了後に、東京パラリンピックの開催が実現しました。
このような方々の背後での見えない努力によって、パラリンピックが開催されたことを思いながら、今回の東京パラリンピックの観戦をしたいと思います。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。マタイ7:7~8
「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」は原語的には、「求め続けなさい。捜し続けなさい。たたき続けなさい。」ということで、諦めないでそれをし続けることを表しているそうです。
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