孫達からの手紙

公開済み 9月 26, 2021 by 管理人 in アドナイ・エレ

~恵まれた環境に感謝~

先日の敬老の日にきた、千葉に住む息子宅からのプレゼントの中に孫たちの写真と彼らのお手紙とがありました。コロナ禍で長く会っていないので懐かしく読ませてもらいました。

長女は「今一番会いたい人は?」との問いに、引っ越したお友達とおじいちゃん、おばあちゃんと答えましたと書いていました。彼女は高校受験を控えて今猛勉強のようです。

長男は、今年中学生で卓球の部活に入ったこと等を書いていました。しかし、コロナで活動はなかなかできていないようです。そして、小学低学年の次男の手紙には、「おじいちゃん、おばあちゃん長生きしたね。」と書いてあったので、びっくりしました。本人は「長生きしてね。」と書いたつもりのようですが、それを見ながら「もう十分生きたでしょ」と言われているみたいだねと言って夫婦で笑いました。

確かにもうすぐ73歳と70歳。長生きしたねと思います。思い返すと私たちの生きた時代は科学の急速な発展によって生活環境が激変した年月だったなと思います。

現在の生活環境は便利で快適で、申し分ないほど素晴らしいものです。それなのに、私たちは常に足りないところに目を向けて不平不満で過ごしてしまいます。今の人たちは私の小さい頃に比べたら、朝から晩まで感謝・感謝で過ごしても良いぐらい素敵な生活ができています。

私が生まれたのは終戦後間もなくで、まだまだ物資が乏しい時代でした。私の父は土木関係の仕事をしていて、不便な所に行って、環境を改善することに生きがいを感じていたのではないか思います。

それで私は種子島で生まれて3歳までそこで過ごしましたが、ほぼその時の記憶はありません。4歳からは屋久島で育ちました。その当時の記憶にあるのは、家々に水道は無く皆「にいのこ」と言われる水場まで水汲みに行っていました。トイレは家の外にあって、夜でもそこまで用を足しに行かなければいけませんでした。もちろん家には風呂もなかったので、父が庭に五右衛門風呂を作ってくれてそこで入浴をしていました。

家は床下が高くて、床下に鶏を飼っていました。床の一部が畳ではなくゴザになっていて、そこをはぐって残飯等を下に落とすと下の鶏が競ってそれを食べて、卵を提供してくれていました。当時、電機が来ていたかどうかはよく覚えていませんが、ランプのホヤを磨いた覚えがあるので、少なくともランプを使っていた所はあったのだと思います。ランプのホヤは直ぐ煤だらけになって暗くなるので、時々ホヤを磨かなければなりませんでした。そして、当時幼稚園はなかったので行っていません。

小学生になると、川辺の公営住宅に引っ越しました。そこも水道はなかったので、近所の人はみな近くの井戸から水を運んでいました。ただ、海が近くて塩分が強いので、飲み水は子供たちがバケツや瓶をもって学校まで汲みに行っていました。学校の水も山から引いてきただけのもので、消毒処理とかされていたものではありませんでした。小学校・中学校とも学校給食はなかったので、一度も食べたことはありませんでした。

クーラーはおろか、扇風機もなく、うちわが唯一の涼める手段でした。冷蔵庫も洗濯機も、炊飯器もストーブもなく、火鉢が1個、家の中央に置いてあるだけでした。勿論冷たい水なんて飲めないし、洗濯は母が井戸場に行くか、前の川に行って洗濯ダライで洗っていました。ご飯も薪をくべて羽釜で炊いていました。

それでも、満足し幸せを感じていました。足りない方を見たらどこまで行っても不平不満は止まりません。恵みの方に目を向けて生きるようにしましょう。

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。Ⅰテモテ6:6~8

No Response to “孫達からの手紙”

Leave a Comment