見習うべきは子供の心
~ 何と情けない大人の姿 ~
先日、地域の一斉清掃がありました。いつもは開始時間前から、あちこちで草刈り機の音が聞こえ始めるのですが、先日は時々雨が降る生憎の天気だったので、あまり清掃に出ておられないようでした。雨の日はそれぞれが自分の都合によって清掃を行うようになっていたので、ほとんどの人は他の日にすることにされたのだと思います。
私の場合は支度が住んでいたので、その日に済ませることにいたしました。雨自体は時々パラパラ降る程度でそれほどひどく降ることはなかったのですが、路面や雑草などは昨夜の雨でかなり濡れていました。
一斉清掃日には、私はいつも教会横の県道に沿って設置されている歩道の草刈り等を致します。歩道も道路と同じように、アスファルトで固めてあるのですが、しつこい草たちは端に積もった土の上や、アスファルトの小さな割れ間に根を下ろし、しっかりと生えていて、中には花を咲かせている雑草までありました。
清掃をしていると、たばこの吸い殻が毎回たくさん落ちています。そして、時にはコンビニの袋やお菓子やパンの袋、ペットボトル・空き缶なども散乱しています。これらの物はすべて大人の人たちが捨てたものだと思われます。そこで、一斉清掃日には近所の子供たちがごみ袋を持って、それらの大人が捨てた物を拾って回ります。子供へのお手本を示すべき大人たちが捨てたごみを子供たちが拾って回るという、何と情けない大人の姿だろうかと思います。
また朝、子供たちの登校の見守りをしていると、子供たちが「あっ、今の車は赤信号で行ったよ。」とよく教えてくれます。車を運転している大人はまだ大丈夫、渡れると突っ込んでしまうのでしょうが、子供たちは厳格に判断して憤慨して私に教えてくれるのです。それは純粋な彼らにとっては、とても気になることなのでしょう。
一方、子供たちが青信号で渡る時、渡り終わって後ろを振り向き、止まってくれた車にペコリと頭を下げます。その様子を見ていると、とっても清々しい気持ちにさせられます。
以前、「車が来ていなかったら、別に赤信号で渡ってもいいんだよ。信号は人のためにあるもので、人が信号のためにあるわけではないのだから」との屁理屈を言われる方がおられました。こんなのも自分の都合に合わせた大人の勝手です。
また、田舎道を走る時、時々道路工事に出くわすことがあります。道路は片側通行になっていて、交互に通行するようになっています。そのような時、工事現場の両端に待ち時間「あと何分」と表示されていることがよくあります。
ある方がご家族連れで差し掛かった時、道路の時間表示に従って待っていました。そのような時の時間は長く感じます。時計が10・9・8~とスタート時間が迫って来たとき、反対側を見ると、まったく車が来ている気配がありません。そこで、少し早めにスタートしました。すると、小学生の子供さんから「お父さん、まだ4だったよ。0になってなかったよ」と注意されたそうです。大人は向こうから車は来ていないし、4秒前だけど、もういいかなと思って出発します。しかし、純粋な子供から見たら、それは大人のエゴに見られるのです。
大人になると、どこか純粋さを失って、ご都合主義を優先させてしまいがちだと思います。私を含めて、お互いに子供の時の純粋さをなくさないでいたいものだと思います。
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。Ⅰコリント13:11
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」マタイ18:2~4
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