生きていた枝
~「冬に木は切るな」~
私の母はいま93歳、認知症でほとんど話もできませんが、デイサービスには元気に通ってくれています。数ヶ月前のことですが、母を送って来てくださった介護士の方から、「今日はみんなで生け花をしました。」と新聞紙でくるんだお花を頂きました。
もちろん母は生け花などできる状態ではないので、介護士の方が代りに作って下さったものだと思います。冬場でほとんど花がない時期なので、数輪の小さな花に、やわらかい枯れ枝の先をくるっくるっと丸めて円く細工したものが包まれていました。
早速、花瓶にその細工した枯れ枝を背景に、頂いたお花を生けて教会の入り口に飾らせて戴きました。細工された枝と、赤や黄色の花のコントラストが美しく、しばらく楽しませて戴きました。
やがて、枯れてしまった花は取り出し捨てましたが、この細工された枯れ枝は花のない時期には上手く仕えると思い、台所の端の棚に花瓶に入れたまま置いておきました。
徐々に寒さも和らぎ、日ごとに少しずつ温かさが増して春の訪れが真直に感じられる気候になって来ました。そして、先日何気なく台所の棚に置かれた花瓶にふと目をやると、花瓶の奥に何か薄い緑色をした小さな葉っぱのようなものが見えました。
何だろう。花瓶に何かの葉っぱが落ちて入ったのかなと思って気にしないでいました。すると、数週間の内にあの枯れたと思っていた枝から次々に緑の若葉が生え出してきたではありませんか。
くるくるっと円く丸められた所からも新芽が次々に目を出してきて緑の輪っかを作っています。そして、褐色になり枯れていると思われた中心の枝が、いつの間にかこげ茶色から濃い緑色に代わって生き生きと若枝のようになってきました。
そうか、この枝は枯れていたんじゃなかったんだ。この枝は私が中の水を捨てるのを忘れて、台所に置いていた花瓶の中で春を待ち、その貯まっていた水を吸って、新芽を吹出したのだと分かりました。見事に復活した枝を見ながら、植物の生命力の強さを改めて教えられた気がしました。
そこで、以前聞いた一つの教えを思い出しました。それは「冬に木を切るな。」というものでした。冬の木は枯れているように見えていても、春になると芽を出すことがあるので、早合点して切ったりしないで、春まで待って判断するようにということでした。
すなわち、この教えには、大きな決断をする時は心が沈んでいるときや、悪い状況の中で判断しないで、時間をおいて落ち着いてからじっくり検討してから判断するようにとの意味が込められています。人生は一つの判断で随分違ったものになります。私たちは常に正しい判断ができるようになりたいものです。
ソロモンがイスラエルの王に任命された時、神様が彼の夢の中に現れて、「あなたの欲しい者を求めなさい。」と言われました。
それに対して、ソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。(Ⅰ列王3:9)」と願いました。
つまりこの大勢の民を正しく導くために、正しい判断力を与えて下さいと願ったのです。
すると神様は、神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。Ⅰ列王3:11~13
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