私も遂に後期高齢者

公開済み 12月 17, 2023 by 管理人 in アドナイ・エレ

~ 75年間の人生には色々な出来事がありました ~

先日、75歳の誕生日を迎えて、ついに後期高齢者の仲間入りをしました。昔は後期高齢者というと、ずいぶんのお年寄りに感じていましたが、今自分がその領域に踏み込んでしまいました。 

 75年間の人生には色々な出来事がありましたが、今回私の小さい時の出来事をお話しさせて頂きます。

まず、私の記憶にはありませんが、種子島で生まれ3歳までそこで育ちました。両親が、その頃の状況をいろいろ話してくれますが、その中で、私が2~3歳の頃、交通事故にあった話は衝撃的でした。私の家の前は坂道になっていて、ある時よちよち歩きの私が家を出て、道路に飛び出したそうです。すると、そこに猛スピードで坂道を駆け下りてくる馬車がいて、ば・・馬車?そう、その時代はまだ車ではなく馬車が走っていました。

さて、走り出した私はその馬車の下に吸い込まれて、その瞬間私の履いていた長靴の片方が放り出されるのが見えたそうです。馬車を走らせていた御者は、小さい子を轢いてしまったので青ざめた顔で馬車から降りてきたそうですが、同時に私も無傷で馬車の下から現れたということでした。私は兎に角じっとしていない子だったようで両親を度々困らせたようでした。

そして、私が3歳の時、私ども家族は屋久島に引越ししました。父は土木関係の仕事をしており、まだ整備されていない所に道路や橋を造ることに喜びを感じていたようです。

父は戦時中、満州で鴨緑江ダムの建設に関わっていて、その時の仲間たちが東京で会社を立ち上げようと誘われたそうですが、それを断って電気も水道もない屋久島行きを選んだそうです。

後で、その話を聞いて「ああその時、東京行きを選んでくれてたら、こんな不便な生活をしなくて良かったのになぁ」と思いました。

私の記憶に残っている最初の家は、床か高くてその下で鶏を飼っていました。畳の一部にゴザを敷いている所があって、そこをはぐって餌を与えていました。水道はなくニイノコと言われる場所まで、皆水汲みに行っていました。電気もなくてランプの煤(スス)を落とすために火屋(ホヤ)を磨いていた記憶があります。

次に引っ越したのは、私が小学生の低学年の時で、その家は川の近くで、台風の度に避難しなければなりませんでしたが、近所の子供たちがみな避難してくるので、親たちの心配はよそに、子供たちはみんなで遊べて楽しい思い出でした。

しかし、そこにも水道はなく、母親たちは共同の井戸に集まって食器を洗ったりしながら井戸端会議をしていました。しかし、その井戸水は飲料としては使えなかったので、子供たちはバケツや空き瓶をもって学校まで水汲みに行くのが日課でした。

そして、小学5年生の時に、父の満州の仲間たちが立ち上げた会社が屋久島全体に電気を送るために、屋久島電工を立ち上げたので、父はその会社に入り、社宅に引っ越しました。親会社は大きなセメント企業なので、今までとは全く違った鉄筋コンクリートの建物で、水道はもちろん、炊飯器や洗濯機、冷蔵庫などの電化製品が揃っていて、今までとは全く違う環境になりました。

そして、その社宅は私たち家族以外の人々はみな、親会社から派遣されて都会から来た人々で、その子供たちもみな上品で頭が良い子供たちでした。

島の中ではその一帯だけ特別な地域に映ったことだろうと思います。ただ、以前はすぐ近くに学校があったのに、遠くなって登下校が大変になりました。

我が家のお隣は奈良から来たU君の家で、同じクラスだったので登下校もその後の遊びもいつも二人一緒でした。彼は一番背が高くて、私は普通の背丈だったので、いつも一緒にいる二人を見て、担任の先生が「大政、小政」と呼びました。彼はやがてNHKのアナウンサーになりました。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。伝道者3:1~2

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