いよいよパリパラリンピックがスタート
~ 障害を全く感じさせない 活躍と、明るい笑顔 ~
パリオリンピックで日本はこれまで海外で行われたオリンピックで最大の20個の金メダルを獲得し、連日その活躍がテレビ等で報道されました。メダルを取られた方だけでなく、すべての参加者が全力を尽くしてオリンピックに備えて来られ、その努力の成果をいかんなく発揮されたことでしょう。本当にお疲れ様でした。
さて、今月28日からパリパラリンピックが開催されます。手足その他に障害を持たれた方々が、明るい表情で各人の持てる能力をいかんなく発揮して、大会に臨まれる姿にはいつも感動を覚えます。
私の小~中学生の頃は、障害者はそれぞれの家庭で隔離されており、町で見かけることはほとんどありませんでした。また、見かけても周りからの憐みの視線を浴びて可哀想でした。そして、当時はまだ戦争で障害を負った方々が、虚無僧の姿をして生活費を支援してもらうために街頭に立っている姿を見ることもありました。彼らは生涯、人の世話を受けて生きていかなければいけない存在と見られていました。
しかし、障害を持たれた方も、身体のごく一部に障害を負っておられるだけで、その他の機能は健常者と言われる人々と全く変わりなく、活動できることをパラリンピックを通して教えられました。
私はパラリンピックを通してみる選手たちの、前向きで力強く競技に打ち込み、障害を全く感じさせない活躍と、明るい笑顔に感動を覚え、多くの活力をいただいております。
しかし、彼らが日本でパラ競技に打ち込めるようになった背後には、中村裕博士の並々ならぬ艱難と偏見との戦いがあったことを知りました。1960年中村氏がパラスポーツの重要性を訴えた当時は、日本ではまだ、障害を隠して生活することが常だったので、中村氏の提唱に対して「障害者を見世物にするのか。」と強い批判を浴びました。
しかし、彼はリハビリテーションの研究の目的で派遣されたアメリカやイギリスで、障害者のリハビリとしてスポーツ医療を取り入れ、残存機能の強化と回復のために訓練し治療する姿に感銘を受けました。
それで、彼は日本でも是非それを取り入れて、障害を持った人々が夢と希望を持って、健常者と変わらぬ活動をする社会の達成を目指し、決してその活動を諦めませんでした。
彼はまず、地元の大分で自分の患者や医師、体育関係者、県庁、障害者などを熱心に説得して回り、「大分県身体障害者体育協会」を設立して、1961年10月に「第1回大分県身体障害者体育大会」を全国で初めて開催しました。
次に、彼は1964年の東京オリンピック後のパラリンピック開催を求めて、厚生省(当時)や関係機関を説得して回りましたが、反応は芳しくありませんでした。しかし、彼は1962年の第11回ストーク・マンデビル競技大会への参加を強く訴え、許可を得ました。そこで、2名の障害者を出場させるために、自分の愛車を売って旅費を工面し出場しました。
すると、この大会に日本からの参加があったということが世界に大きく報道されたので、厚生省もリハビリテーションの推進に力をいれることになりました。そして、1964年11月、東京オリンピック終了後に、東京パラリンピックの開催が実現しました。
このような方々の背後での見えない涙ぐましい努力によって、パラリンピックが開催され、続けられてきたことを思いながら、パリパラリンピックの観戦をしたいと思います。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。マタイ7:7~8
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