良い種を蒔けば良い実が実る
~善を行えば、時期が来て刈り取るようになる。~
先週は、相手に迷惑をかけても自分さえ儲かれば良いというような売買は良くないということを話しました。現在は特にネット等で顔が見えないので、平気で嘘をついて取引を勧めようとされることが多くなりました。それで、以前の対面での取引と比べたら、お互いが見えない分、そういう傾向がかなり強くなってきているように感じます。
私は牧師になる前に、10数年ある企業で働いていましたが、そこでは取引には社会性がないといけないということを徹底して教わりました。つまり、伝えたかったことは、自分だけが儲けることを考えないで、相手にも喜んでもらうことによって、より良い関係が構築でき、関係が長続きするということだと理解しました。
例えば数年前のこと、教会の母子室の畳を長く表替えていなくて、かなり色あせてきていたので畳の表替えをして頂くことにしました。ただ、窓際の畳の一畳だけは日に当たり、雨が吹き込んで濡れたのか、踏むたびにフカフカとへこんでいたので、これだけは替えて頂かないといけないかなと思っていました。
そして、畳屋さんに来て頂いたのですが、畳屋さんに窓際の畳を指して「これだけは変えて頂かないといけないですかね?」と言うと、畳屋さんはその畳に乗ってみたりしながら、「いや、これも替える必要はありません。大丈夫です。」と言われました。そして、畳の置き場所を変えたりして綺麗に畳の表替えをして帰られました。
お客さんが替えないといけないと思っているので、「そうですね。替えときましょう。」と言われたら、もっとたくさんお金を取れるのに、「親切な畳屋さんだねぇ」と夫婦で話しました。そして、次に替える時も必ずこの畳屋さんにお願いしようと決めました。
また、教会の看板を立てる時の看板屋さんも良い人でした。看板を支えるポールは頑丈なものが必要で、看板自体と同様にかなり費用が掛かると覚悟していましたが、看板屋さんが来られて、以前の所有者が残していった看板のポールを見て、「これは使えます。新しいのは必要ありません。」と言われて、それを使って看板を立てて下さいました。
そして、看板代を請求される時も、「すみません。材料費が高くなっていて、これぐらいかかります。」と申し訳なさそうに言われます。そのようなお姿を見ていたので、教会の壁に設置する時計の作業も、看板屋さんとは余り関係なさそうでしたが、その方にお願いしました。
『気は心』と言われますが、お互いが相手のことを思いやって対応することが重要ではないかなと思います。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。ガラテヤ6:7~10
すなわち、上の聖句のように神様は侮られるようなお方ではないので、人は良い行為を行えば良い報いを受け、悪い行為を行うと必ず悪い報いを受けることになります。目先の儲けで人々を悲しませたら、必ずその報いは受けます。これは、商取引だけの問題ではなく、すべての行動において真理です。したがって、お互いに善を行うのに飽きないようにしてまいりましょう。
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