『母の日』に亡き母のことを思う

公開済み 5月 11, 2025 by 管理人 in アドナイ・エレ

~ 優しかった母親に感謝 ~

5月の第2日曜日は『母の日』です。この機会に今は亡き母のことを思い出して書いてみようと思います。母は、大正8年生まれで、96歳まで生きられましたが、残念ながら80代半ばで認知症を発症したので、最後の10年間は我が家で共に生活しました。

母が我が家に来たときは、すでに認知症がかなり進んでいて自分が結婚していたことや、自分に子供がいたことさえも分からなくなっていました。

しかし、我が家に来てから私の妻が積極的に接し、略歴を書いてフリガナを打って読んでくれたりして、徐々に記憶が回復し昔のことを思い出し、3人の息子たちのことも少しずつ思い出しました。そして、私のことで思い出したのは、「この子には難儀した。」でした。

3人の息子の中で、一番苦労をかけたので、仕方がないことでしたが、もっと良いことを思い出してくれたら良かったのにとも思いました。しかし、事実ですから仕方がないです。

さて、母の父親は高校の教師で鹿児島市内に住んでおり、母親は母の幼少期に亡くなってしまいました。そして、父親は新しい奥さんを貰い、その後2人の妹が生まれました。

しかし、継母はあからさまに妹たちとの差別をして、学校に持っていく弁当の中身も格段の差があり、母はみすぼらしい弁当に恥ずかしくて人に見せないように蓋で隠して食べていたということでした。

継母にとっては、前妻の子はただ憎い対象でしかないこともありうるのだと思いました。したがって、母にとっては自分の家がくつろげる場所ではなかったようで、そういう環境で育った母を可哀想だなと思います。

そういうことを、私たち子どもにはあまり話さなかったので、私は母が私の妻に話してくれたのを伝え聞いて、びっくりさせられることが多かったです。

また、母が父と結婚したのは、戦時中で母の父親の勧めで結婚したのですが、父はすでに満州(今の中国と北朝鮮の間)のダム工事の技術者として行っており、日本にいなかったので会ったことも、見たこともなくて、母の父親が父の実家に連れて行って、「ここで育った人」との情報だけで結婚したとのことでした。

したがって、母が満州に渡ってはじめて結婚相手の顔を見たということでした。今では考えられないことですが、当時は相手を気に入るも気に入らないもなかったのでしょう。

しかし、満州での生活はとても豊かで、給料を頂いても箪笥の引き出しにお金がそのまま入っているほどだったそうですが、当時は使う場所も余りなかったのでしょう。

やがて、終戦になって突然ソ連兵が入ってきて、すべて奪われて父は当地で生まれた長男(私の兄)をおんぶして、約30人の引揚げ者のリーダーとなり、母とみんなの面倒を見ながら命からがら日本に引き上げてきたということでした。

また父は、田舎で苦労している人々のために、道路や橋を造り喜ばれるのを生き甲斐としていて、先に屋久島に渡って仕事の段取りや住む家を決めてから母を呼びました。そこで、母は兄と私を連れて屋久島に渡ったのですが、そこは当時、電気も水道もないところだったので、母は日々の生活や、子育てにかなり苦労をしたようでした。

しかし、母親も晩年は、日曜日は礼拝に集い、教会のお食事会にも出席して、また孫とも一緒に生活できて、平安で幸せな日々を送られたと思っています。

今は亡き優しかった母親に感謝します。

正しい者の父は大いに楽しみ、知恵のある子を生んだ者はその子を喜ぶ。あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。箴言23:24~25

一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。箴言17:1

No Response to “『母の日』に亡き母のことを思う”

Leave a Comment