一人でも多くの人に知ってもらいたい

公開済み 5月 18, 2025 by 管理人 in アドナイ・エレ

~ 喜びと希望の人生~

私たちの大学はミッションスクールで、キリスト教学の授業がありました。妻は真面目な学生でしっかり授業に出て学んでいたようですが、私は宗教自体に興味がなかったので、授業にも身が入らず、大学のチャペルにも出席したことはありませんでした。

 大学を卒業して、二人はやがて結婚しました。妻は三浦綾子さんの『新約聖書入門』や『生きる事、思う事』などの本を読んでいて、妻から「教会に行こう」と誘われました。私自身はあまり乗り気ではありませんでしたが、ある日妻に連れられて教会に出席しました。

 そこで、二人とも神様はおられ、救い主なるイエス様もおられるということがはっきり分かりました。これは、知識によって確認したというわけではなく、感覚として確信しました。

 それで、イエス様を信じました。すると、心に平安と喜びが溢れてきて、思わず「きょうの1日は、今までの1カ月より、ずっと素晴らしい。」と叫びました。

 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。Ⅰコリント1:21

 そこで、この素晴らしい恵みを他の人に伝えたいと、家庭集会を始めました。牧師先生には2度ほど来ていただきましたが、後は自分たちで行いました。とはいうもののまだ人に話せるようなキリスト教の知識があるわけではありません。そこで、妻がキリスト教のビデオ「星野富弘さん」のものや、「水野源三さん」のもの、福音歌手の「胡 美芳(こびほう)さん」のものに「三浦綾子さん」のものなど、当時はかなり高価なものでしたが、それを買って私の会社の人々を呼んで来て集会を続けました。

 「星野富弘さん」は、中学校の体育の先生だったのですが、クラブ活動の指導中の宙返りで頭部から転落し頚髄を損傷して手足の自由を失いました。彼は悔しさから毎日「チクショー、チクショー」と言っていたそうですが、キリストを受け入れてからは、筆を口にくわえて絵や詩を書いて、多くの人を力付けました。

 「水野源三さん」は、小さい頃病気の高熱で身体の自由を奪われ、話す事まで出来なくなってしまいました。それで、彼は50音順を指してもらって、瞬きをすることで意思を示すのみとなりました。

 しかしある時、町の牧師が訪れて聖書を置いて行ったので、それをお母さんにめくってもらって、読むようになり、そこで希望を見出し、瞬きで詩を作るようになりました。感動する良い詩がたくさん生まれました。それで、彼は「瞬きの詩人」と言われました。

 「胡 美芳さん」は、和歌山県生まれの中国人で1974年にキリスト教に入信し、日本人初めての福音歌手として沢山の教会を回っての伝道活動を続けられました。

 また、「三浦綾子さん」は、太平洋戦争中は熱心な小学校教師として、教科書に沿って子供たちを指導していましたが、終戦後その教えていた教科書が間違っていたということで、多くの部分を墨で塗る作業をさせられました。それで、教育者として罪悪感と絶望を感じて、退職します。しかしその後、様々な病気を患って入院している時に、三浦光世さんと会い、キリスト教に入信し、その後「氷点」や「塩狩峠」など、沢山の小説を世に残されました。

 そのようなビデオを使って集会を行っていた折、教会の谷山伝道所が閉鎖される計画を知って、私たち夫婦は志願して、そこに行かせて頂き、妻はそこで婦人集会を始めました。そして妻を通して、その集会や幼稚園の保護者などからたくさんの人が救われました。

 また、私は元やくざの教会員の家で家庭集会をするようになり、彼が毎回沢山の人を集会に連れてくるので、そこからも多くの人が救われました。人生に希望を失っている人だけでなく、全ての人が喜びと希望の人生の歩みを始めることを願ってやみません。

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