母の日に思う
~あんたには難儀した~
私が小学生の頃、今から約70年前は、僻地の小学校のせいもあったのか、日々の宿題などは全くありませんでした。それで、学校が終わったら何時も目いっぱい遊べました。
ただ、我が家には私にとって一つの問題がありました。それは家族揃って5時半から夕食を食べるという事でした。放課後みんなで遊び始めて5時半とは遊びの佳境に入ったところです。友達はまだ遊んでいるのに、私は家に帰らなければなりません。私はそれが嫌で、暗くなるまで遊んでいて締め出しにあったことが度々でした。
家に帰ると、鍵がかかっています。私がトントンとドアをたたくと、中から「どなたですか?」と母の声。私が「ひろあき」というと、「我が家にはそんな人はいません。」と言われてしまうことが度々ありました。
また、日々の宿題はなかったのですが、夏休みと冬休みには「夏休みの友」「冬休みの友」という、忌まわしい宿題がありました。宿題をさせるために母は私の横に座って、逃げ出さないよういつも見張っていました。私は勉強が大嫌いだったので、強制してさせないと宿題をしないことが分かっていたからです。
その私が牧師になってから、土曜日は母が一人で住んでいる坂の上の坂元町に、メッセージの準備に行っていました。朝行って部屋に閉じ籠もり、1日中机に座って熱心に聖書を読んだり、メッセージを作成したりしている姿を見て、母が「親が金を出す時は、ちっとも勉強しなかったくせに、今頃になって勉強して」と言っていました。
母は私との昔のことを思い出して、「あんたには難儀した。」と言っていました。昔は言う事を聞かずに、苦労を掛け済まなかったと思っています。しかし、母の晩年には妻をはじめ皆さんの助けにより、少しは孝行できたかなと思います。
さて、どちらの家のお母さん方も、子育てには大なり小なりご苦労されておられると思います。それで、『母の日』があることを感謝します。
そもそも母の日の起源は、アメリカで1905年5月9日に亡くなったミセス・ジャービスを追悼しようと、アンナ・ジャービスが教会で 白いカーネーションを配りました。 その習慣が徐々に広がり、1914年、当時のアメリカ大統領ウィルソンが アンナの母が亡くなった5月の第2日曜日を母の日と制定し、国民の祝日としました。
日本に母の日が伝わったのは、明治時代の終わりごろとされています。大正時代に入るとキリスト教関係者の間でカーネーションを配る母の日のイベントがおこなわれるようになり、1931年には3月6日が母の日として制定されました。
しかし、一般的に母の日が普及したのは、大手菓子メーカーである森永製菓が1937年に「森永母の日大会」を開催したことがきっかけです。1947年には、5月の第2日曜日が正式に母の日として制定されました。
アンナの提案で、母親を失くしている人は白いカーネーション、母親が健在な人は赤いカーネーションを胸に飾っていましたが、やがて母親にカーネーションを贈る習慣に変化したといわれています。
日本で母の日が浸透した当初は、母親が健在かそうでないかでカーネーションの色を区別していましたが、それでは、母親を失くした子どもが傷つくのではないかという声が上がり、母の日には赤いカーネーションを贈ることが主流になりました。ネット情報により
あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。箴言23:25
わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。箴言1:8

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