死の淵からの脱出

公開済み 6月 16, 2013 by 管理人 in アドナイ・エレ

〜死を乗り越えた父:父の日にちなんで〜

6月第3日曜日は父の日です。父親の家長としての責任、また家族のための日々の働きに心からなる感謝を捧げましょう。なかなか普段に面と向かって「お父さん。ありがとう。」とは言いにくいものです。ですからこういう機会にかねての分も含めて感謝いたしましょう。

残念ながら、私には「ありがとう」と言う父はもういません。感謝しようにも、もうする事ができません。当たり前のように父の恵みを受けてきたことを今になって反省しています。

みなさん、お父さんにいつ感謝するのですか?今でしょ!!!

さて私は、父が書き残してくれた、終戦後北朝鮮からの死線をさまよいながらの引き上げ体験記を改めて読ませていただきました。また、それを冊子にして、父の兄弟と私の兄弟、すなわち父の子供たちに送らせていただきました。

父は第2次大戦中、満洲の鴨緑江で技術者として、ダムの建設にかかわっていました。そして、そこで終戦を迎えました。そのとき父はすでに結婚をし、長子(私の兄)が生まれていました。

敗戦国となった後の日本人の北朝鮮における環境はそれまでとは一転してしまいました。そして、しばらくするとソ連兵が入ってきて略奪が始まります。皆急いで帰国支度をして帰途に就くものの、父たち3名(水電の父、間組のⅯ氏、西松組のⅠ氏)の技術者は朝鮮臨時政府から現地に残り、満浦中学校、満浦女学校の設計をするように命ぜられました。

満浦中学校、満浦女子高の設計が終わった後も、ソ連司令部に技術者として出勤を命じられます。その後、朝鮮臨時政府の無給の使役が続き、どんどん生活がひっ迫していきます。

その様な中、父は技術者として、北朝鮮残留が必至の状況だったので、何とか帰国の機会をと窺っていたら、終戦後約1年経ったときに、ついにチャンスが巡ってきました。一人の日本人が帰国を断念したことによって、技術者として残るように要請されていた父が、秘密裏にその方の代わりに帰国団に入れてもらうことになったのです。

父は自分の家族だけでなく、出生軍人の家族(夫人と子供たち)を連れて、逃避行を始めます。途中で合流した日本人の団体と、一緒に日本に向かうが、目立たない様に10数名のグループに分かれて、1日30キロから40キロの道のりを歩き続けます。

大きな川は流されないようにみんなで手をつないで渡りました。食料も底をつき、途中疲労と栄養失調で、ばたばた何人も死んでいった。父の分団の中には死んだ子供を背負って歩き続ける母親もいた。

父は母と、荷物と長男を交互に背負い、分団のリーダーとして遅れている人の様子を何度も引き返して見て回り、助けつつ南へ南へと進みます。途中幾度も死の淵を通り、死を覚悟しながらの逃避行でした。

出発後50日目にして遂に日本の博多港に着き、翌日故郷鹿児島の我が家に4年ぶりに帰り着きました。父は妻子と分団を日本に送り届ける責任と無事帰れた安堵感で、故郷到着後40日間昏睡状態になったということでした。

父と母が死線をさまよいながら無事に帰って来てくれたことによって、今の私があることを思うと感謝で一杯です。父が亡くなり20年余りになりますが、その様な苦難を乗り越えてきたことを微塵も出さず、私たち3人の子供を育ててくれたことに感謝しています。

私たちの今の幸せは、20代30代の若さで私たちの想像できないような死と隣り合わせの体験をしてきた父の年代の方々の苦労を礎として築かれたものであることを自覚し、感謝したいと思います。

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。詩篇23:1~4a

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