苦しい時の神頼み?
〜「俺は騙されないぞ。」?〜
若い時、「俺は神様なんか信じない。」「俺は神を信じるような弱い人間じゃない。」と粋がって生きていました。
大学時代なぜか宣教師の先生によく声をかけられました。「試験はどうでしたか?」私が「英語が駄目でした。」と答えると、「それじゃ家に遊びに来なさい。英語を教えてあげますよ。」
その時、私は内心「この人は私を騙してクリスチャンにするつもりだな。俺は騙されないぞ。」と思っていました。それで最後まで、宣教師宅を伺うことはありませんでした。
その様に「神なんかいない」と思っていた私でしたが、お正月の初もうでに行って、わずかなお賽銭を投げ込んで頼みごとをしていました。受験の時は受験の神様と言われる神社のお守りを貰って喜んだりしていました。それなのに、その時はそのような自己矛盾に気付いていませんでした。
さて、今年も沢山の方々が初詣に行き、お願い事をされたものと思います。また、受験の神様と言われるところにも多くの参拝客が行かれ、自分の受験する学校の名を絵馬に書いて祈願しておられます。
しかし、そのようにされる多くの方々が、以前の私のように無神論者を自認しておられるのではないでしょうか。かねては神様なんか信じない生活をしているのに、何かあると神頼みに行かれるのではないですか。
もし、神がおられるなら普段からそのように生きる必要がありますし、もしいないのなら、お正月や問題のある時お参りしても意味がありません。神がおられるならおられるように、いないのならいないように一貫して生きるべきではないでしょうか。
例えば、かねては人を脅したり、いじめたり、苦しめたり、平気でうそをついたり、他人の悪口を言って回ったりしながら、困った時だけ祈っても、そんな都合のいい祈りは聞かれないと誰でも思うでしょう。
大切なことは、神がおられるのか、おられないのか?もしおられるのならば、どういう存在なのか?私たちの祈りに答えられるのか、答えられないのか?その能力はどれほどなのか?力のある方なのか?ない方なのか?それらを曖昧にしないでしっかり調べる必要があると思います。その上で確信を持って人生を歩んでほしいと思います。
天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。 わたしは隠れた所、やみの地にある場所では語らなかった。ヤコブの子らに『むなしくわたしを尋ね求めよ。』とも言わなかった。わたしは主、正義を語り、公正を告げる者。諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、救えもしない神に祈る者らは、何も知らない。告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。イザヤ45:18~22
私は悔いのない人生を送るために、このような神を信じます。すべては主権者なる神の前にあらわにされていることを信じて、日々歩んでいこうと思います。
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。伝道者12:13~14
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