孫の心を開くために
〜現実の私たちに慣れない孫〜
先週報告させて戴いたように、1年ぶりに千葉の息子家族と楽しい時を過ごしました。空港からレンタカーでナビを頼りに彼らの住む街に向かいました。何とか街に入ることができましたが、肝心のナビはそこでストップして先を教えてくれません。
仕方なく息子に電話して途中まで迎えに来てもらいました。指定されたスーパーの駐車場に入ると、すでに彼ら家族が到着していて、私たちが着くと、元気な孫たち二人は飛びついてきたり、ぶら下がってきたりと喜びを表してくれました。
高齢者の仲間入りをした私には会うたびに大きくなる彼らの重さが応えるようになってきましたが、「おじいちゃん、大好き。お婆ちゃん、大好き」と言って飛び掛って来てくれるのも、今だけかなと思い老体にムチ打ってその愛に答えようとしています。
一方、まだ1歳にならない孫の次男は、私たちの顔を見て少し愛想笑いするだけで、私たちのもとに近づいて来ようとはしません。
彼とも毎週スカイプを通して会っていて、パソコンの画面越しに語り掛けたり、笑ったり、手を振ったりして、充分心を開いてくれていると思っていたのに、画面に映る私たちと現実の私たちとのギャップが大きかったのかもしれません。
私たちが彼を抱くと、大変なことが起きたかのように必死でそこから逃れようとします。それでもなお抱いていると、泣き出してしまう有様です。
私たちは何とか現実の私たちにも慣れてもらおうと、遊んであげたり、ご飯を食べさせてあげたり、話しかけたり笑いかけたりとあの手この手で心を開いてもらえるように努力します。しかし、なかなかパソコン越しの様には心を許してくれません。それでももちろんあきらめずに努力を続けました。
そこで、考えました。神様も同じように、人間が創造主なる神、祝福の基なる神に、心を開いて永遠の命を得られるようにと忍耐して接してくださっておられるんだなと。
真の神様は勝手に神の下から離れて、「神なんかいない。」と宣言し、また自分で神を作り上げてそれに頼り、まことの神を無視して永遠の滅びに向かって行く人々に対して、語り掛け、恵みを与え、祝福を注いでおられるのに、一向に心を開こうとしません。
また、ひとり子なるイエス様を遣わして、愛を与え、恵みを与え、守り助けて、関係を回復しようとしておられるのに、それでも心を開かない悲しい現実を見ます。
それでも神様はあきらめないで関係回復のための涙ぐましい努力をし、愛によって接し続けてくださっておられます。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。ヨハネ3:16~17
神の愛は今もあなたに注がれています。あなたは神に愛されています。1日も早くこの愛を知って希望と喜びの人生を見出して戴きたいと思います。
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。使徒3:19
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