えっ、あの人充電したの?
〜羊飼いのいない羊〜
先日、街頭に立って安全登校指導をしていた時のこと、喜入署の署長さんが、「お世話になりました。この度移動することになりました。」とのご挨拶に来られました。
私が「いえいえ、こちらこそお世話になりました。」と返事をし、「今度はどちらに行かれるのですか。」と尋ねると、署長さんは「本署の方に行くことになりました。」とのことでした。
それで私が「それではお忙しくなられますね。」と言うと「そうですね。でも喜入でしっかり充電させていただきましたので、また頑張ります。」と言って、丁寧にお辞儀をして横断歩道を向こう側に渡って行かれました。
それをじっと聞いていた小学2年生の女の子がすぐ近づいて来て「ねえ、ねえ。あの人、充電したの?」そして、怪訝な顔をして「どこで充電したの、教会??」と聞いてきました。
彼女の中では、コンセントからコードを引っ張って、身体につけて充電している署長さんの姿が想像されていたことでしょう。
彼女の想像とは違っても、私たちはみな充電期間が必要です。何時までも緊張し、気を張り続けていることはできません。人生には時々緊張を緩め、安息する時が必要だと思います。特におまわりさんたちは極度の緊張を強いられることも多々あることでしょうから、精神的にゆっくり休む時を持てたことは良いことだったと思います。
彼女から「どこで充電したの、教会??」と聞かれましたが、あながち間違いではなく、教会こそが人々の安息の場所、充電の場になるべきだと再確認させられました。
イエス様は群衆に向かって次のように言われました。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ11:28
イエス様の目から見ると、すべての人が人間関係、仕事の重圧、身体の不調等によって重荷を負って苦労しているように見えるのだと思います。人生は決して平たんな道ばかりではありませんから。
イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。マルコ6:34
羊飼いに守られている羊たちは、野原で草を食んでいても、水辺でのどの渇きを潤していても平安と安息を得ます。しかし、羊飼いから離れた羊は不安と恐れの中、自分自身で牧草を見つけ、水場を探さなければなりません。そして、そのような所こそ最も襲われる危険性の高い所で、安息することは到底できません。
私たちを守り安息を与える神様を拒否した人間はみな羊飼いのいない羊になって不安と恐れの中で生活しています。それは、世の成功者と言われる人たちでさえ一緒で、人生は苦労の連続だと告白しています。
「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし 急ぐべからず」徳川家康人生訓
「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪花の事は夢のまた夢…」豊臣秀吉辞世の句
あなたも真の羊飼い、主なるイエス様に守られる平安の人生を歩みませんか。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。詩篇23:1~4
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