母の誕生日に際して思う
〜どこに引っ越しても鶏を飼う母〜
母が95歳の誕生日を迎えました。母は大正8年7月18日生まれですから、大正、昭和、平成と3時代にわたって生きてきたことになります。もちろん戦争体験者でもあります。満州で終戦を迎え、父と1歳の長男を抱えて、命からがら半年の逃避行の後、日本にやっと帰り着くという大変な苦労を経験しています。
母は若い頃から、決して身体が強い方ではありませんでした。自分でも60歳まで生きられたら本望だというようなことを私たちに向かって、何時も言っていました。それは彼女の両親が比較的短命だったことから来ているものと思います。尤も大正時代の平均寿命は50歳代ですから別段不思議なことではないかもしれません。
しかし、95歳までこのように元気にしておられるとは、本人さえも想像もつかなかったことでしょう。もし母が認知症で無く、意識がはっきりしていたら、このような高齢まで生きてこられた自分を見て、本人が一番驚くことでしょう。
母は今でもデイサービスやショートスティに、迎えのバスに乗って出かけます。支えがないとうまく歩けなくなりましたが、施設の優しいスタッフの皆さんに助けられて、喜んで出かけてくれています。
家にいる時は、食事の時以外はほとんどベッドで寝て過ごしています。食事は、時間はかかりますが、自分で箸を使って食べてくれるので、本当に助かります。
ところで、私たちが小さい頃の母は、身体は小さかったけれど、まことに頼りになる存在でした。父が仕事の関係で家を開けることが多かったこともあり、子供達が病気になると、小さな体に子供を背負って、山を越えて病院まで急ぎました。あの体のどこにそんな力があるのだろうと不思議になるほどでした。(当時はまだ馬車やリヤカーが輸送手段でした。)
また、母は教育ママのはしりのような存在で、勉強には結構うるさかったです。私たちは屋久島に住んでいたのですが、鹿児島市内の育英社から毎月試験問題を取り寄せて、それを私たちにさせて、送り返して添削してもらっていました。勉強の嫌いな私はそれが嫌いで、母の教育ママの行動に閉口していました。
母には不思議なところがあり、どこに引っ越しても鶏を飼いました。私が小学校上がる前に住んでいた家は床の高い家でした。そこでは床下に鶏を飼っていて、部屋の一部には、ゴザ敷の部分があり、そこから残飯を落として鶏達が食べられるようにしていました。
次に引っ越した家では庭の片隅に鶏小屋が造られていて、そこに4~5羽の鶏を飼っていました。鶏達は小屋を出て庭の虫や草を啄ばんでいました。
その次は立派な会社の一戸建ての社宅で、広い庭がありました。そこに引っ越した時もすぐに少し大き目の鶏小屋が建てられました。そこでも母はよく鶏達を庭に離して、勝手にえさを取るようにしていました。
鶏達は母に慣れていて、母が買い物に行こうとすると、団体で着いて行こうとしていました。それで、家の庭を出る時は、「しーっ、しーっ」と鶏を追い帰してから、急いで出掛けるのが常でした。
今思うと当時卵はそんなに簡単に手に入らなかったのだと思います。それで、鶏を飼って、私たちの健康を考えて卵を産ませて食べさせてくれていたのだと思います。
母さん95歳の誕生日おめでとうございます。また、私たちを育ててくれてありがとうございました。もっと長生きしてください。
しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。箴言31:10~12
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