日本人の美徳Ⅱ
〜ポーランドの子供たちを救った日本〜
今回も私たちの先祖、日本人の持っていた美しい慈愛の精神について学びたいと思います。
「18世紀にポーランドは、ロシアとプロイセン、オーストリアに3分割され、すべての国土を失ってしまいました。そこで、ポーランドの愛国者たちは地下に潜って独立運動を展開しましたが、そのたびに逮捕されて、家族もろとも流刑の地シベリアに送られました。
130年の月日が流れ、その間シベリアのポーランド人たちは、肩を寄せ合い、寒さと飢餓と伝染病と戦いながら、かろうじて生きながらえていましたが、その中でも親を失った子供たちは、悲惨極まりない状況に置かれていました。
1919年ベルサイユ条約により、ようやくポーランドは独立を回復することができました。しかし、翌年ポーランドとソ連との間に戦争が起き、唯一の帰国方法であったシベリア鉄道が危険地帯となって、彼等の帰る道が閉ざされてしまいました。そこで世界に救援を求めましたが、ことごとく失敗し、絶望していました。
しかし、その様な状況下で唯一救援を名乗り出た国がありました。それが大正時代の日本でした。日本から極寒のシベリアに入り、せめて親を亡くしたポーランド人の孤児だけでも助けようと、悪戦苦闘を重ね3年近くにわたって活動を続けた結果、765人の孤児たちをシベリアから救出することができたのです。
しかし救出した孤児たちのほとんどが重い伝染病と、飢餓で衰弱しきっていましたから、日本の施設では、看護婦がつきっきりで看護にあたりました。腸チフスのために衰弱しきっていた子供の看護にあたった若い看護婦の中には自分が腸チフスに感染して亡くなった人もいました。
彼ら孤児たちの惨状を伝え聞いた人々から、寄付を申し出る人々、慰問の品々を送ってくれる人々、無料で歯の治療や理髪を申し出る人々がいました。また皇后陛下(貞明皇后)も彼らと親しく接し、彼らを抱きしめました。
こうした中で、彼らの健康や心の傷はしだいに癒され、のちに回復した子供から順次8回に分けて祖国ポーランドへ送り届けられました。孤児たちは親身になって世話をしてくれた日本人との別れを惜しんで、泣いて乗船するのを嫌がったそうです。
その時、ポーランド極東委員会の副会長ヤクブケヴィッチ氏から次のような感謝の手紙が送られてきました。
『日本は、わがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国です。しかし、不運なるポーランドの児童に、かくも深く同情を寄せ、心から憐憫の情を表してくれました。我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはありません。
我々の児童をしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、果ては指輪までも取って与えようとしました。こんなことは1度や2度ではありませんでした。・・・ここにポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感恩、最も暖かい友情、愛を持っていることをお伝えしたいと思います。』
この出来事から75年後、日本で阪神・淡路大震災が起きました。その時、真っ先に被災者の救援に飛んできてくれたのは、ポーランドの人たちでした。また、その大震災の後、孤児となった人たちを沢山ポーランドに招いて激励会をも開いてくれました。」
「神に愛された国日本」久保有政著より
愛の実践は愛の連鎖を生みます。愛の社会の実現には、まず自分にできる小さな愛の実践からだと思います。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。Ⅰコリント13:4~8a
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