沖縄研修報告1
〜沖縄の400年の苦労〜
戦後70年、日本で唯一の地上戦が行われた沖縄に行き、複数の著名な方々の生きた証言を伺い、また資料館や当時兵隊や地域住民が隠れて抵抗を続けたガマと呼ばれる巨大な暗渠<地下壕>にもヘルメットを着用し、懐中電灯持って入り、同行してくれたガイドから当時の悲惨な状況等の説明を詳しく聞いてくることができました。
4日間、とてもハードなスケジュールではありましたが、非常に有意義な時間を過ごすことができ、快い疲れと共に満足して帰って来ました。
今回は1609年薩摩藩による琉球支配がはじまってから、そこに住む住民にどのような影響【負担】を負わせているかを具体的に知り、まず私たちがそのことに関して深い理解を持ったうえで、沖縄県民とのわだかまりをなくすために、謝罪すべきはちゃんと謝罪し、良好な関係を構築したいとの思いで訪ねました。
沖縄に行って感じたことは、そこに伝わる芸能文化等を見、沖縄の歴史に触れるにつれ、薩摩侵攻までは、ここはもともと日本でもない、中国でもない、琉球王国といわれる独立国だったのだとの思いをいよいよ強く致しました。
薩摩侵攻によって彼らは日本の支配を受けることになり、その後の明治維新によりできた明治政府の廃藩置県1879年<明治12年>によって、半ば強引に沖縄県になりました。
1890年教育勅語が発布され、日本国民は天皇を家長とする赤子(せきし)であるとの理念による教育が行われ、沖縄においても服装の改めと方言の使用禁止が家庭の中まで求められ、日本人意識の植え付けが徹底されました。
また、当時の皇民化教育によって、死が美化され「お国のために命を捧げ、靖国神社に祀られることが最大の栄誉。」と教えられるようになりました。
その後1941年太平洋戦争が勃発、やがて戦火が沖縄に迫り、ついに1945年遂に米軍が沖縄に上陸、地上戦が始まります。日本軍は圧倒的な米軍の軍事力に抵抗するも、瞬く間に追い込まれ、沖縄に多くある鍾乳洞に軍人、村民が隠れて抵抗するようになりました。
また、暗い壕の穴に負傷者を手当てする救護所が作られ、沖縄の高等師範学校と県立第1高等女学校の生徒が負傷者の看護の手伝いのためあちこちの壕に駆り出され、暗い不衛生な地下壕の中で負傷者の手当てや諸々の雑用をさせられていました。
私たちが地下壕に入ると、細長い洞穴で、足もとはツルツルして滑りやすく、どこまでも暗い気持ちの悪い場所で、上からはあちこちにポタポタと水が落ちていました。当時暗い中で聞こえてくるのは負傷者のうめき声という環境の中で女学生たちは食事の世話から汚物の処理、その他の雑用に追われ、壁に寄りかかって束の間の休憩を取っていたとガイドが話してくれました。
やがて戦火が激しくなり、いよいよ追いつめられると入口に村民を追いやり、奥の方に軍人が隠れるようになった。そのわけは「我々はお国のために戦っている。あなた方より、私たちが生き残って戦いを続ける方がお国のためになる。」というようなものだったそうです。
また、軍は村民が捕虜になって機密が漏れることを恐れて、敵に捕まるぐらいなら自決するように暗に進めたことにより、集団自決が起こったとその現場に直面し、それに関わった方から証言を聞くことができました。
結果的に勝ち目はない中で、沖縄での地上戦を1日でも長引かせ、米軍を足止めさせることが目的になった結果、沖縄ではより多くの犠牲者を出すことになりました。
終戦後も日本の米軍基地の74%が沖縄に集中し、米兵による事件が頻発しているにも関わらず、基地の返還や不平等な地位協定の改定交渉も行われないままで、いつまでも沖縄に負担に負わせたままになっていることに対して、自分達は日本国民として対等に扱われないで、見捨てられているとの不満が今沖縄中に爆発している様子を見、体感してきました。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。マタイ5:23~24
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