東北での復興支援研修Ⅰ

公開済み 5月 18, 2015 by 管理人 in アドナイ・エレ

〜いつの間にか関心が薄れていた東北へ〜

作:佐多 恵悟

今年春、東京の企業に就職し、横浜の寮に入ったのに、先日のFacebookで東北の海岸で撮った写真をアップして、牧師先生に驚かれた3男です。今週はその、新人研修の一環として行った、東北における復興支援の活動と、その時感じたことなどを分かち合いたいと思います。

 

私が今年4月から就職した会社では、新人研修のカリキュラムとして、1週間被災地へ出向いて復興支援を行う活動があります。これは、東日本大震災が起きた年以降、毎年行われているもので、今年で4年目となります。

私がこの度行かせていただいたのは、南三陸町と言われるところで、北に気仙沼市、南に石巻市が隣接する、宮城県の海岸沿いにある町です。現在の人口は約15,000人。震災前2月末時点の人口は17,666人。震災では620名の方が犠牲となり、未だ213名の方が行方不明となっています。

研修中のプログラムとしては、バスで実際に被災された建物などを訪れる視察・散策と、割り振られた活動場所での実際の復興支援活動が、交互に組まれる形となっていました。支援活動としては、漁業の復興支援として、現地の漁師の方々から指示を仰いでお手伝いをする、といった内容となっていました。

 

1日目は東京駅からバスに揺られて、南三陸へ約8時間かけて向かいました。南三陸に向かう途中に寄ったのは、石巻市の大川小学校跡地でした。大川小学校はテレビでも取り上げられた被災地で、児童108人のうち84人、教職員は13人のうち10人が死亡・行方不明となった小学校です。校舎は半分以上の壁がなくなっており、渡り廊下を支えていたであろう太い柱は、台風に見舞われた細い電柱のように途中から折れて倒れていました。

南三陸の泊まるホテルに着いて荷物をおろした後、またバスに乗り、今度は現地の方がバスガイドとなり、南三陸で被災した場所を回って視察させていただきました。全校生徒で丘の上に避難し、周りが水に囲まれて雪も降る中、子供たちを励ましながら一夜を明かした戸倉小学校跡地。地震当時、高齢者などが催し物で楽しんでおり、地震後に一斉に帰ろうとした時、「死にたくなかったら一歩も外に出るな!」と言った従業員が屋上に誘導して、全員が助かることとなった高野会館跡地。そして、高野会館の真向かいにあり、地震後、人出が足りない中、自力歩行が困難な患者たちを一生懸命屋上に運搬し、周りが水に囲まれ、十分な器具がないながらも必死で命をつなごうとしたのだが、入院患者106人のうち、70名が死亡・行方不明となり、病院の看護師ら3人も犠牲となった志津川病院跡地。

南三陸視察で、最後に訪れた場所は、現在も課題となっている南三陸町防災対策庁舎跡地でした。震災当時、津波が建物に届くその直前まで、「津波が来ますので高台に避難してください」の放送を言い続けた方々がおられた場所です。その後、約30人の町職員が屋上に避難されましたが、津波は屋上まで達し、助かった方は10名のみでした。この防災対策庁舎を解体するか保存するか、で、未だに議論がなされています。風化させてはいけない、と言う方もおれば、見るだけで家族を思い出してしまう、という方もおられ、決着するまではまだまだ時間がかかると言われています。

震災から4年が立ち、震災関係の報道もほとんど聞かなくなってきた現在。いつの間にか東北への関心は薄れ、自我のために必死になって生活していた自分がいることを気付かされ、恥じるとともに、考えなければならないと思い始めました。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。(Ⅰヨハネ3:18〜19)

 

南三陸の被害状況:

http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/index.cfm/17,181,21,html

『大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻』:

http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html

 

写真:未だに震災当時のままとなっている伊里前川水門

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