まことの安息を与えてくださるイエス・キリスト

マルコの福音書3章1-12節より

2020年3月29日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

パリサイ人は安息日を守らないイエスを責めた。しかしイエスはご自身を安息日の主であると主張した。律法を厳格に守り、権威を誇るパリサイ人の偽善をイエスは指摘した。パリサイ人は自分たちの地位を守るため、ねたみにかられ、心がかたくなにされ、イエスの権威あることばを受け入れられない。パリサイ人はイエスを罠に陥れ、殺すために安息日を利用する。

安息日(律法)を守ることによっていのちを得るのではない。イエスこそが、いのちを与える安息である(イエスとは「主は救い」の意味)(ヘブル4:1-3)。イエスがこの地上に来られたのは、十字架で呪われたものとなって律法を成就するため(ガラ3:13)(マルコ10:45)。ご自身を十字架に捧げ、死と葬りと復活による罪の赦しによる新しい契約を与えられた(ヘブル8:6-13)(エレミヤ31:31-34)。

その新しい教えを説くイエスをパリサイ人は葬ろうとし、民衆は受け入れようとみもとに集まる。

しかし、人の子であるイエスとは何者であるかはわからない。病人を癒し、汚れた霊が追い出され、何かが起こっていることはわかるが、人々は見えるものしか信じられない。くしくも汚れた霊だけがイエスを「神の子」であると知る。人間は罪に堕落した結果、自分の力によってイエスを救い主と信じられない。

人間は自然の摂理や良心の呵責から神の存在を認めることはできる(ローマ1:20)が、しかしキリストが罪からの救い主であることは福音(Ⅰコリ15:1-4)を通してしかわからない(Ⅱテモテ3:15)(ローマ3:23-34)。

神は聖霊を与え、自身の罪を認め、悔い改め、イエスを信じる信仰さえもお与えになる(ヨハネ16:7-8)。

日曜日は神に礼拝を捧げ、命に憩う安息の日

マルコの福音書2章23-28節より

2020年3月22日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

創造と救いは命を与える神さまの偉大なみわざである。神さまの創造のみわざは休むことなく継続され今もすべての命をあわれみ保っておられる。

安息日はすべての労働をやめて、神さまに礼拝を捧げるために聖別された日である。

それは神さまが最初の6日で万物を創造され、7日目に休まれたことにならうことである(出エジ20:10-11)。また奴隷から解放されたことを覚えて救いの神さまに礼拝を捧げることでもある(申命記5:15)。

安息と礼拝は互いに関連があり、これはうわべで守ることではない。何よりも第一とされる基本であり、命の源である。理由を求めることでなく従うべきことであり、人間の存在の目的である。神さまとの永遠の契約である。守らなければ死罪にあたる(出エジ31:12-17)。神の安息を守る者は祝福される。

罪に堕落して以来、人はまことに礼拝を捧げる対象と安息を失った。罪と死に束縛され、おそれと労苦に捕らわれている。神さまが与えてくださる救いによる平安をすべての人が必要としている。

「安息の年」に6年間農耕した土地を7年目に休ませる。命を育む土地は「神のもの」「聖なるもの」である(出エジ23:10-11)。その年に奴隷は解放され(出エジ21:2-6)、負債は免除された(申命記15:1-6)。7回目の安息の年の次の年、50年目ヨベルの年にはすべての人が自分の土地、家族のもとに帰ることができた(レビ25)。

安息とは肉体的、精神的な労働を中断して、労苦や悩みから解放されて、平安にある状態を言う。

安息はキリストを信じる信仰により与えられる命である(イザヤ61:1-3)。奴隷から救い出されたエジプトの民は不従順のために安息の地、カナンに入ることができなかった。しかし、まことの安息と礼拝は、キリストを信じる者のために今も残されている。

安息はキリストの十字架の死と復活により、今も与え続けられている恵みである(ヘブル4)。

キリストの十字架の死と復活による新しい創造

マルコの福音書2章18-28節より

2020年3月15日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には断食は年に一度の大贖罪日と呼ばれる日に行うように書かれている(レビ16:29)。パリサイ人の断食は偽善的なものであった。旧約の時代の宗教儀式ではなく、まことの贖罪のために罪なきキリストが人間の罪の刑罰の身代わりに十字架で罪の贖(あがな)いを成し遂げてくださった(へブル9:12)。

キリストは病を癒(いや)し、悪霊を追い出し、死人を復活させ、貧しい人、罪人の友となり、愛と赦しの福音、神の国を語り歩いた。人々はキリストのもとに集まり、その新しい権威ある教えを喜んで聞いた。

しかし、不気味な十字架の影がしのび寄り雲行きが怪しくなると、キリストに対する人々の態度は急変した。キリストがむち打たれ十字架にさらし者とされた時に、人々はもとより3年あまり寝食を共にして仕えた弟子たちもキリストを捨て、拒み、去って行った。

キリスト者は花婿なるキリストの純潔な花嫁に例えられる。キリストが十字架死なれることは、花嫁から花婿キリストが取り去られること。

キリストを十字架に付けた罪深い人間の罪を知り、悔い改めに導かれる(使徒2:36-38)。

しかしキリストは死んで三日目によみがえり、死と罪に打ち勝たれた(1コリント15)。キリストが十字架で流された血潮によって新しい契約が与えられる。それは自分の罪の身代わりのためにキリストが十字架で死んで復活されたことを信じる者に与えられる罪の赦しである。信じる者にはキリストと共に古い罪が死に、キリストのよみがえりと共に新しい命が与えられる(ローマ6:4)。神との関係が回復され、神の子とされる(ヨハネ1:12)。

キリストを信じた者は以前の生き方から、心、言葉、行いすべてがキリストに似た者とされていく(ローマ8:28-30)(2コリント5:17)。キリストの命のつながり罪に打ち勝つ力が与えられる(ローマ5:17)。

キリストを通して大胆に神に近づく

マルコの福音書2章1-17節より

2020年3月8日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

中風の人が4人の人に担がれて屋根を破ってイエスに近づいた。大胆な信仰に驚かされる。わかるから信仰を持つのではなく、キリストに近づくことにより信仰が神によって与えられる。(へブル11:6)(エペソ3:12)

中風の人にイエス様は「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われる。病で苦しむ者に対して罪の癒しを宣告される。

病は肉体を苦しめ、肉体を滅ぼすかも知れない。しかし病は死を超えることはない。しかし神に対する罪はすべての人の本質的な大問題である。何ものかにが神よりも大切とされることが罪の根本であり、そのため人間は本来あるべき姿が大きく損なわれている。罪の奴隷とされ悪に引き寄せられる傾向をもつ。地上生涯だけでなく死後は永遠の滅びに至る。

罪は神と人間の関係を阻む隔ての壁である。中風の人たちが屋根を壊したように、神との壁は信仰によって壊される。その時に中風の人はただ信じて担がれていただけ。 罪の赦しを得るために人間は何もできない。ただ、神さまからの赦しをいただくだけです。私たちの罪の身代わりにキリストが十字架で死んでくださったことを信じるなら救われる。そのままの姿で、罪を悔い改めて、イエス様の前に進み出るなら、神様はあなたを新しく造り変える。今ある問題を解決してから信じるのではない。悪習慣に克服してからイエス様を信じるのでない。イエス様を罪からの救い主として心にお迎えするなら、問題の解決も誘惑に打ち勝つ力も与えてくれる。(ヘブル9:14)

神に近づく者が受ける癒しは永遠の救いの希望

マルコの福音書1章35-45節より

2020年3月1日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

重い皮膚病のツァラアトの男性はイエスのもとに行き癒された。その時、イエスは誰にも言わず、祭司に見せて、きよめの供え物を捧げるよう厳しく戒められた。しかし、彼はイエスに従わず、癒しの奇跡を人々に言い広めた。十字架ではなく、奇跡だけが人々に広がり、まことの救い主として来られたイエスの働きを人々から遠ざける。

ツァラアトは一般の病気と違い宗教的な意味の病、罪に関わる。その病気の宣告や完治したことの宣言も医者ではなく神に仕える祭司が行う。(レビ記13,14章)

ツァラアトの患者は汚れた者として人々から隔離される。そして神のあわれみにより癒されたなら、祭司に見せて、決められた捧げものをして、「けがれた者」が「きよい者」と宣言される。この宣言こそが罪ある人間が神に義と認められる救いである。

すべての人の病は神から離れて自分本位に生きている状態、罪である。神の最大の奇跡は人の内面の癒し、罪の赦しである。そのためにキリストがあなたの罪の身代わりに十字架で死んでくださった。このことを信じる者は罪赦され、神との親しい関係が回復され、新しい命を与えられて生きる者と変えられる。

イエスを信じて近づき、あなたの人生にイエスを迎えるなら、キリストの新しい命はあなたの内に入り、神さまはあなたの人生にご介入される。その時、あなたはすべてを神さまにお委ねして安心して生きる者に変えられる。内なる病であった恐れや心配、絶望から解放される。