神のアガペーの愛はあなたの存在の理由であり、生きる目的

マタイの福音書5章43-48節より

2021年7月25日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、とイエスは命じます。自分の家族や、自分を愛してくれる者を愛することは誰でもできます。しかし、自分を愛さない者、自分を苦しめ傷つけようとする者を愛することはできません。

ギリシャ語の「愛」という言葉は、家族や友を愛する「愛」のほかに、アガペーと言われる「愛」があります。この愛は神様の愛の性質を表わしています。

アガペーの愛は神が遣わされたキリストの十字架の死を通して現されています。神に背き、神の命令を守らず、自己中心に欲を満たすために生きる人間が受けるべき罪の刑罰の身代わりのためにキリストは十字架で死んでくださいました。赦される価値のない人間が、ただ一方的な神のアガペーの愛のゆえに罪赦されるのです。

イエスはこのアガペーの愛で自分の敵を愛しなさいと言われるのです。アガペーの愛は、感情ではなく、他者に対して善をしようとする決意です。たとえ、どんなひどいことをされても、悲しませられても、侮辱されても打ち負かせない善意を持とうと決意することです。自分が好きになれない人、自分を愛してくれない人、自分を苦しめ傷つけようとする人を愛そうとする力と意志です。

しかし、本当にこの命令は人間に必要なのでしょうか。

実はこのイエスの教えは、キリストを信じて罪赦された者の生き方を表わします。自分の罪深さを知り、自信を価値なき者と悲しみ、神に頼ることなしに生きることは出来ない者が、罪を悔い改めて、キリストに罪赦された者はこのように生きるべきだと言われるのです。キリストの愛と恵みが、人を造り変えて愛の人に変えるのです。

神は善い人も、悪い人も分け隔てなく愛されます。罪赦されたなら、私たちもどんな人にも愛と善を行いたいと願うようになります。神の言葉を守ることは、私たちに本当の生きる喜びを与えてくれます。アガペーの愛によって自分自身を健全に愛する者に変えられます。神様が創られた、本来の人間の姿に変えられていくのです。

犬は家の中におとなしくいることが本来の姿ではありません。寒くても暑くても、活き活きと走っている時、犬は本来の姿で最高に喜んでいるのです。鳥も力いっぱい翼を広げて大空を飛んでいる時が最も美しく鳥らしいのです。

人間も神の愛を受けて、神に造られた大切な存在として互いに愛し合う時、最も人間らしく、神を称える存在として生きることができるのです。

愛はこの世で一番素晴らしいものです。愛が神と人を結びつけることができるのです。そして、愛はキリストの十字架を示すのです。

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」  

(ヨハネの手紙第一 4章:7-8節)

何処にいても、どんな時もキリストはあなたと共におられるインマヌエルの神

マルコの福音書16章9-20節より

2021年7月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

十字架に付けられ三日目によみがえるというイエスの言葉を信じてマグダラのマリヤはよみがえりのキリストに出会います。

マリヤは弟子や悲しんでいる人たちに、キリストがよみがえられたことを知らせます。しかし、彼らはよみがえられたキリストを見た人たちの言葉を信じませんでした。キリストは彼らの不信仰とかたくなな心を責められます。

神に近づく道は二つしかありません。一つは神の命令を完全に守ることです。しかし、それは誰もできません。もう一つは信仰によって神に近づくことなのです。

私たちはキリストの十字架も復活も目撃していません。しかし聖書の中のキリストのよみがえりの目撃者の言葉を信じるなら、キリストの救いを受けるのです。信仰とは見えない事実を信じる保証なのです。信仰は得体のしれない神秘的なことを信じるのではありません。信仰は信頼できる事実に基づいているのです。よみがえられたキリストを信じて受ける救いは、神の言葉の聖書の真実であり選択の余地はないのです。

キリストを伝える者がいなければ誰も神と出会うことはありません。テレビでもラジオでも本でもないあなただから伝えられるイエス様のお話があるのです。あなたが伝える言葉に神様が働かれて誰かがキリストに出会うのです。このように復活のキリストと出会ったことをマリヤが伝えたことから始まって、時代と国を超えて巡り巡ってあなたにもキリストが伝わったのです。それは神の力ある働きです。

キリストを信じる者は、イエスの御名によって力ある人生を生きていくことができます。婦人警官は笛を鳴らして交通整理をします。大きなダンプカーもオートバイも彼女の指示に従います。それは彼女に迫力や腕力がなくても、彼女には交通整理をする権威が与えられているからです。

水戸黄門のようにあなたの名前に力はなくてもイエスの御名に頼るなら悪魔の力も退けます。あなたが語るキリストの言葉は聞く者を慰め、力づけ、希望を与えます。

これからは何があっても、嬉しい時も、失望の時も、いつまでもいつまでも、永遠にイエス・キリストはあなたと共におられます。インマヌエルの神です。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

(マタイの福音書28章20節)

すべてを覆(くつがえ)すキリストのよみがえり

マルコの福音書16章1-9節より

2021年7月11日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスは十字架で死んでしまいました。希望は去り、何もかも終わってしまった。マリヤたち女性が出来ることはイエスに油を塗り手厚く葬ることだけに思えました。

ここまでが人間が知り、行動できる領域です。大切なのはこの先にある人間の理解を超えた信仰の世界にあるのです。

空っぽの墓には御使いがいて、十字架につけられたイエスはよみがえられたと女性たちに告げます。思いもしない事の成り行きに女性たちは驚きます。そして恐れますが喜びます。

人間は「あやまちは取り返せない。罪は赦されず、後悔しても何も変わらない。未来に希望はなく、墓場ですべてが終わる。」と考えます。

この世界に本当の命も、本当の光もありません。なぜならこの世界は罪という現実があるからです。この罪の支配から人間は絶対に自由になることはできません。

しかし驚くべきことが起こりました。この罪の現実をキリストは打ち砕き、墓の中からよみがえられました。死に勝利されたのです。キリストを信じる者は、よみがえりのキリストの命につながり、罪から解放され、死はもはや力は何の力もありません。

罪の中に生きる者は死の滅びに敗北してしまいます。しかし罪の世に勝利する者とは、信仰によって、イエスを神であると信じる者だけだと聖書ははっきり言います。

この世界と同様に、人間の内にも罪と死の支配があります。思考も言葉も行いも、罪と死の法則にさらされていました。しかし、よみがえりのキリストの命をいただくなら、人間の内は罪と死の法則から、命と御霊の法則に変えられます。この変化は人間の努力や頑張りでは絶対に不可能です。神がキリストを通して信じる者に与える驚くべき御業です。

徳川家康のことを知っている人はたくさんいます。しかし徳川家康を知っている人はほとんどいません。私たちはキリストのことを知るのではなく、キリストを知るのです。キリストはよみがえられ、今生きて存在しておられます。このよみがえりのキリストと個人的な交わりを持つことが出来るのです。

信仰によって驚く体験、日々キリストとの新しい出会い、語りかけを受けることができるのです。この神との関係の回復こそがすべての人間に必要なのです。それこそがキリストの十字架の目的です。

キリストの死と葬りにより罪ある古い人は死ぬ

マルコの福音書15章42-47節より

2021年7月4日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

アリマタヤのヨセフは裕福で立派で正しい人で、神の国を待ち望んでいました。イエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していました。

しかし、十字架でイエスの死を目撃して、イエスの体の引き渡しをユダヤ総督ピラトに願い出ます。自分の身に危険が及ぶことも恐れないでヨセフはイエスのために行動したのです。かつての彼からは考えられません。十字架のイエスに出会ったなら人は必ず変えられるのです。

人の愛、大切な人の死によって人は生き方が変わるかも知れません。しかし、その人自身を内側から造り変えることができるのは神であるイエス・キリストだけです。

人間の生き方は2つしかありません。

①自分の欲を満たすために罪から離れずに生きる。②神を恐れて、悪から離れて生きる。

聖書は①を罪と言います。やりたいことを何でもすることが自由でしょうか。いいえ、本当の自由とはまことの神を信じて、聖書の言葉に従う生き方です。神から離れるなら人間は罪の奴隷となります。奴隷は自由ではありません。自由とはキリストを受け入れる信仰によって神から与えられる恵みのプレゼントなのです。

ヨセフは他の議員たちと同じようにではなく、イエスに対して自分のすべきことを行いました。それは、自分の罪と決別して、イエスに近づくことでした。ヨセフはイエスの十字架により自分の罪を知り、古い自分を十字架で埋葬して、信仰によって新しくされたのです。

ヨセフはイエスの体を洗い、清潔な亜麻布で包み、新しい墓にイエスを埋葬しました。ヨセフによってイエスは丁重に葬られました。ヨセフの迅速な行動によって、イエスの埋葬を安息日に入るまでに終えることができたのです。

すぐに、いかなる仕事もしてはならない安息日に入りました。前日の十字架の出来事は嘘みたいに静まり返ります。

しかし、この安息日こそが、神の救いのみわざの始まりです。それは、信じるすべての人を罪の束縛から解放するまことの安息です。人間を罪による死の滅びから救い出して、永遠の命を与える、ただひとつだけのキリストの救いです。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」

(ヨハネの福音書53章39-40節)