日曜日は神に礼拝を捧げ、命に憩う安息の日

マルコの福音書2章23-28節より

2020年3月22日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

創造と救いは命を与える神さまの偉大なみわざである。神さまの創造のみわざは休むことなく継続され今もすべての命をあわれみ保っておられる。

安息日はすべての労働をやめて、神さまに礼拝を捧げるために聖別された日である。

それは神さまが最初の6日で万物を創造され、7日目に休まれたことにならうことである(出エジ20:10-11)。また奴隷から解放されたことを覚えて救いの神さまに礼拝を捧げることでもある(申命記5:15)。

安息と礼拝は互いに関連があり、これはうわべで守ることではない。何よりも第一とされる基本であり、命の源である。理由を求めることでなく従うべきことであり、人間の存在の目的である。神さまとの永遠の契約である。守らなければ死罪にあたる(出エジ31:12-17)。神の安息を守る者は祝福される。

罪に堕落して以来、人はまことに礼拝を捧げる対象と安息を失った。罪と死に束縛され、おそれと労苦に捕らわれている。神さまが与えてくださる救いによる平安をすべての人が必要としている。

「安息の年」に6年間農耕した土地を7年目に休ませる。命を育む土地は「神のもの」「聖なるもの」である(出エジ23:10-11)。その年に奴隷は解放され(出エジ21:2-6)、負債は免除された(申命記15:1-6)。7回目の安息の年の次の年、50年目ヨベルの年にはすべての人が自分の土地、家族のもとに帰ることができた(レビ25)。

安息とは肉体的、精神的な労働を中断して、労苦や悩みから解放されて、平安にある状態を言う。

安息はキリストを信じる信仰により与えられる命である(イザヤ61:1-3)。奴隷から救い出されたエジプトの民は不従順のために安息の地、カナンに入ることができなかった。しかし、まことの安息と礼拝は、キリストを信じる者のために今も残されている。

安息はキリストの十字架の死と復活により、今も与え続けられている恵みである(ヘブル4)。

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