放蕩息子のたとえ話~罪人を愛する子として迎えてくださる神

ルカの福音書15章11-24節より

土山みことばキリスト教会

2022年6月26日

この放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ話は、神さまから(はな)れた罪人(つみびと)である人間の姿(すがた)です。そして神さまのもとに愛する子どもとして帰ることができる希望(きぼう)です。

息子(むすこ)は生きている父に相続(そうぞく)財産(ざいさん)の分け前をもらい、荷物(にもつ)をまとめて遠い国に旅立ちました。父の手の届かない外国で遊女(ゆうじょ)におぼれ、放蕩(ほうとう)の結果、一文(いちもん)()しになります。また予想(よそう)しない大ききんが起こり、食べるのに(こま)りますが、誰も彼を助けることはありません。ひとりぼっちの彼は、彼の故郷(ふるさと)ユダヤでは()ずべき()(きら)(ぶた)世話(せわ)をすることになりました。すべては彼が父にとった態度(たいど)姿勢(しせい)こそが、彼の悲惨(ひさん)運命(うんめい)(はじ)まりでした。 そんな中で彼は(やさ)しい父のもとで()らした平和で幸せな愛の生活を身をもって思い出します。今の自分は父の息子(むすこ)ではなく、(ぶた)世話(せわ)をする奴隷(どれい)です。このまま、父と二度と会うことなく、関係が(こわ)れたままで、永遠に(はな)(ばな)れになってしまうかも知れません。

その時、彼はふと(われ)(かえ)ります。父から遠く(はな)れ、堕落(だらく)した自分の姿(すがた)気付(きづ)いたのです。そして父のもとに(かえ)ろうと決めます。やりたい放題(ほうだい)してもう(かえ)ることなどできないとは思わなかったのです。なぜでしょうか。それは彼が父の(あい)を完全に(わす)れなかったからです。決して()わらない父の(あい)を心に信じたからです。

もう人生(じんせい)は終わりだ。もうどうにでもなれ。絶望(ぜつぼう)だ。自殺(じさつ)しかないと彼は考えずに彼はカッコつけないで(なさ)けない自分を生きようとしたのです。正直(しょうじき)に父に(あやま)ろうと思ったのです。自分の正しさで責任(せきにん)()らなくていいのです。彼はただ、父の家に(かえ)ろうとしました。もう父の息子(むすこ)として(あま)えるのではなく、父に(つか)えようとしました。これが()(あらた)めなのです。

(かみ)のみこころに()った(かな)しみは、()いのない、(すく)いに(いた)()(あらた)めを(しょう)じさせますが、()(かな)しみは()をもたらします。

(コリント人への手紙(てがみ)第二7章10節)

どんなにあなたが、(かみ)さまから(はな)れて、自分勝手(じぶんかって)に生きて、ゆるされる資格(しかく)などないと思っても、どれだけ()わり()てて落ちぶれても、(つみ)(けが)れても、この()では何の価値(かち)がないと思っても、あなたが今までの生き方を()(あらた)めて、(かみ)さまに立ち(かえ)ろうとするなら、(かみ)さまはあなたを(さが)して見つけ出して、罪人(つみびと)としてではなく、(あい)する子どもとして歓迎(かんげい)してくださいます。(かみ)さまはあなたの(つみ)()めたてるのではなく、ゆるしたいのです。

どんなに生きるのが(くる)しくて、まったく希望(きぼう)(うしな)ったとしても、あなたには、(かえ)るべき場所があるのです。(よろこ)んで迎え入れてくれる(あい)(かみ)さまがいてくださるのです。

しかし、あわれみ(ゆた)かな(かみ)は、私たちを(あい)してくださったその大きな(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に()んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが(すく)われたのは、ただ(めぐ)みによるのです──

(エペソ人への手紙(てがみ)2章4-5節)

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