イエス様は罪人の友

マタイの福音書9章9-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月31日

<聖書>

イエスは、そこを()って(みち)(とお)りながら、収税所(しゅうぜいしょ)にすわっているマタイという人をご(らん)になって、「わたしについて()なさい」と()われた。すると彼は立ち上がって、イエスに(したが)った。
イエスが家で食事(しょくじ)(せき)()いておられるとき、見よ、(しゅ)税人(ぜいにん)罪人(つみびと)が大ぜい()て、イエスやその弟子(でし)たちといっしょに食卓(しょくたく)()いていた。
すると、これを見たパリサイ(びと)たちが、イエスの弟子(でし)たちに()った。「なぜ、あなたがたの先生(せんせい)は、(しゅ)税人(ぜいにん)罪人(つみびと)といっしょに食事(しょくじ)をするのですか。」
イエスはこれを聞いて()われた。「医者(いしゃ)必要(ひつよう)とするのは丈夫(じょうぶ)(もの)ではなく、病人(びょうにん)です。
『わたしはあわれみは(この)むが、いけにえは(この)まない』とはどういう意味(いみ)か、行って(まな)んで()なさい。わたしは(ただ)しい人を(まね)くためではなく、罪人(つみびと)(まね)くために()たのです。」

(マタイの福音書9章9-13節)

<説教>

イエスは罪人(つみびと)の友です。罪人(つみびと)()びかけて、私について来なさいと言われます。マタイはイエスの()びかけにすぐに、何もかも()てて(したが)いました。

信仰(しんこう)とは神さまの言葉(聖書)を(しん)じて(こた)えることです。あなたの意志(いし)決断(けつだん)です。神さまのことを理解(りかい)しようとするならいつまでも信仰(しんこう)に入ることはできません。今までの生き方を()(あらた)めて、神を(しん)じることから新しく(はじ)まるのです。(しん)じるなら(かなら)ず神様があなたを(たす)け、道を(ひら)いてくださいます。

イエスは彼らの信仰(しんこう)を見て、中風(ちゅうぶう)の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの(つみ)(ゆる)された」と言われた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)9章2節)

イエスは(やまい)(いや)しました。またイエスは(つみ)(ゆる)す権威をお持ちでした。細胞が新しくされて(やまい)(いや)されます。人の内面(うちめん)根底(こんてい)から(つく)()えられて(つみ)(ゆる)されます。

人間は外側(そとがわ)しか()えられませんが、神さまは人間を内側(うちがわ)から(つく)()えることができます。心が新しくされる→動機(どうき)がきよめられる→言葉や行いが()わるのです。人間(教育(きょういく)道徳(どうとく)自己(じこ)啓発(けいはつ)など)の方法(ほうほう)では、言葉や行いを()える→?→?。で終わります。キリストの十字架(じゅうじか)のみわざは人間の理解(りかい)()えた(いのち)なのです。

(しゅ)税人(ぜいにん)マタイはイエスを(しん)じて、価値観(かちかん)()えられました。自分のためだけに使(つか)ってきたお金を、イエス様のために、隣人(となりびと)のために盛大(せいだい)()()いました。

人はキリスを(しん)じて、(つみ)(ゆる)され、きよめられ、()わることが出来るのです。愛する心が生まれるのです。

イエス様の(まね)きに(こた)えないならあなたは罪人(つみびと)のまま(けっ)して()わることはできません。神の目からはすべての人間が罪人(つみびと)だと聖書(せいしょ)は言います。(つみ)(かなら)永遠(えいえん)(ほろ)びという()(いた)(やまい)です。(つみ)(いや)しは、十字架(じゅうじか)であなたの(つみ)のために()なれたイエスがよみがえられたことを(しん)じる()(がい)ありません。

イエスの(まね)きに(こた)える(しゃ)はイエス様と一緒(いっしょ)食事(しょくじ)をします。ともに食事(しょくじ)をとるのは親友(しんゆう)であるしるしでした。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)預言者(よげんしゃ)ホセアは不貞(ふてい)姦淫(かんいん)の女を(つま)にめとります(ホセア記)。

堕落(だらく)したイスラエルがまことの神様を()てて外国の神を(あが)めてみだらな礼拝(れいはい)を行いました。イスラエルの不真実(ふしんじつ)に対して、神さまの忍耐(にんたい)(ぶか)い愛をあらわしています。

そして、新約(しんやく)の今、イエスが(つみ)(けが)れの奴隷(どれい)である私たちと真実(しんじつ)永遠(えいえん)(ちぎ)りを()わして、結婚(けっこん)してくださることを預言(よげん)しています。

イエスはあなたに()びかけています。それは罪人(つみびと)であるあなたの友となるためです。

神さまから離れて(つみ)の中に生きるあなたにイエス様は忍耐(にんたい)(ぶか)い愛をもって、あなたが神さまに()(かえ)るように今も()びかけています。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者(いしゃ)必要(ひつよう)とするのは丈夫(じょうぶ)(しゃ)ではなく、病人(びょうにん)です。『わたしはあわれみは(この)むが、いけにえは(この)まない』とはどういう意味(いみ)か、(おこな)って(まな)んで()なさい。わたしは(ただ)しい人を(まね)くためではなく、罪人(つみびと)(まね)くために()たのです。」

(マタイの福音書9章12-13節)

「人生(じんせい)の転機(てんき)」ジョン・ニュートン(1725~1807)

奴隷(どれい)(せん)船長(せんちょう)から世界中(せかいじゅう)()られる讃美歌(さんびか)アメイジング(おどろくばかりの)グレイス(めぐみ)」の作詞(さくし)(しゃ)

ニュートンは、1725(ねん)にロンドンで生まれました。(かれ)父親(ちちおや)船乗(ふなの)りで、ほとんど家にいませんでした。子供たちを(そだ)てる責任(せきにん)は、敬虔(けいけん)愛情(あいじょう)(ぶか)いクリスチャンの母親(ははおや)(かた)にかかっていました。彼女(かのじょ)はいつもジョンの手を()って、(かみ)(まえ)にひざまずいて(いの)り、自分(じぶん)(しゅ)にささげるように(みちび)きました。そして(かれ)聖書(せいしょ)()み、賛美歌(さんびか)(あん)(しょう)することを(おし)えました。(かれ)が7(さい)(とき)母親(ははおや)過労(かろう)病気(びょうき)のために()くなりました。そのような打撃(だげき)によって、少年(しょうねん)(こころ)はかたくなになりました。11(さい)(とき)にいじめに()い、学校(がっこう)()め、父親(ちちおや)について(うみ)()ました。(かれ)は20(ねん)以上(いじょう)もの(あいだ)流浪(るろう)放浪者(ほうろうしゃ)として()ごしました。(はじ)めは、船乗(ふなの)りの生活(せいかつ)をしましたが、放蕩(ほうとう)生活(せいかつ)(さけ)()(ごと)日々(ひび)でした。(かれ)何度(なんど)福音(ふくいん)()きました。それを()くたびに、(かれ)(あい)する母親(ははおや)(かお)(おし)えを(おも)()し、(こころ)()されました。しかし、(かれ)邪悪(じゃあく)生活(せいかつ)から()()せませんでした。

その()(かれ)はアフリカに()って、奴隷(どれい)貿易(ぼうえき)(たずさ)わりました。(はげ)しい喧嘩(けんか)()こり、その結果(けっか)今度(こんど)(かれ)奴隷(どれい)として()られました。(かれ)(くる)しみ、(なや)みました。(こころ)(なや)みと身体(しんたい)(くる)しみから逃亡(とうぼう)しましたが、(かれ)()()けていたのは、さらに(おお)くの鞭打(むちう)ちと投獄(とうごく)で、()ぬような(おも)いをしました。(さいわ)いに(ちち)友人(ゆうじん)であった親切(しんせつ)船長(せんちょう)(たす)けられ、本国(ほんごく)(かえ)ることになりました。しかし、その航海(こうかい)途上(とじょう)大西(たいせい)洋上(ようじょう)(おそ)ろしい大暴風雨(だいぼうふうう)()()まれ、浸水(しんすい)して、沈没(ちんぼつ)するばかりでした。(かれ)必死(ひっし)(かみ)のあわれみを(もと)め、()(あらた)めて、信仰(しんこう)()(かえ)ったのです。

ジョンは大嵐に遭い九死に一生を得た

その()(かれ)堕落(だらく)生活(せいかつ)(あらた)まらず、(あら)くれの奴隷(どれい)(せん)船長(せんちょう)にさえなっていましたが、やがて(かみ)不思議(ふしぎ)(みちび)きによって、クリスチャンの船長(せんちょう)()()い、母親(ははおや)から(おし)えられた(かみ)(つか)えるようになりました。

1754(ねん)当時(とうじ)有名(ゆうめい)伝道者(でんどうしゃ)、ジョン・ウェスレーやホィットフィールドの指導(しどう)()け、(かれ)(しゅ)(はたら)きをするようになりました。(かれ)はすばらしい()学力(がくりょく)があり、ギリシャ()やへブル()(まな)び、(かみ)(おお)いに(もち)いられました。

(かれ)墓碑(ぼひ)には(つぎ)のように(きざ)まれています。

「ジョン・ニュートン、伝道者(でんどうしゃ)、かつては(ふか)放蕩(ほうとう)(かぎ)りを()くした無神論者(むしんろんしゃ)で、アフリカの奴隷(どれい)貿易(ぼうえき)をした(もの)が、(しゅ)イエス・キリストの(ふか)(めぐ)みによって(ゆる)され、(すく)われ、()まれ()わり、(かみ)のしもべとして福音(ふくいん)()(つた)える(もの)となる


苦難の中であなたと神の間にいるお方

ヨブ記1章20-22節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月24日

<聖書>

このとき、ヨブは立ち上がり、その(うわ)()()()き、(あたま)をそり、()にひれ()して礼拝(れいはい)し、そして言った。「私は(はだか)(はは)(たい)から出て来た。また、(はだか)で私はかしこに(かえ)ろう。【(ぬし)】は(あた)え、【(ぬし)】は()られる。【(ぬし)】の御名(みな)はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても(つみ)(おか)さず、(かみ)愚痴(ぐち)をこぼさなかった。

(ヨブ記1章20-22節)

<説教>

ヨブは潔白(けっぱく)で正しい人でした。(かみ)さまをおそれて(あく)から(とお)ざかっていました。彼は苦難(くなん)の中でも(つみ)(おか)さずに(かみ)さまをほめたたえました。
しかし、ヨブは一度(いちど)家族(かぞく)家財(かざい)(うしな)い、体中(からだじゅう)がひどい(やまい)(おか)されました。(つま)友人(ゆうじん)たちの(なぐさ)めも、ヨブの心には(まった)(とど)きませんでした。彼の苦難(くなん)(なげ)いても忍耐(にんたい)してもどうにもなりませんでした。
ヨブは自分が正しく生きてきたことを()っていました。その自分が何故(なぜ)これほどの(くる)しみを受けるのかわかりませんでした。

ヨブが(もっと)もおそれたことは、()ぬこともできず(くる)しみ()(つづ)けることでした。あまりの(くる)しみに彼は、生まれたことをのろい、()(ねが)います。しかし、死後(しご)がわからない不安(ふあん)(おそ)れがありました。また(かみ)さまに誤解(ごかい)されたまま()にたくありませんでした。結局(けっきょく)、ヨブは()ぬことが問題(もんだい)解決(かいけつ)ではないとわかります。

すべての解決(かいけつ)(かみ)さまとの関係(かんけい)回復(かいふく)なのです。ヨブの(くる)しみの原因(げんいん)は、親族(しんぞく)友人(ゆうじん)にわかってもらえず、見捨(みす)てられることではなかったのです。彼の(くる)しみは(かみ)さまとの信頼(しんらい)関係(かんけい)(なく)くしたことでした。

ヨブは最後(さいご)(なぐさ)めは(かみ)さまと(かみ)さまのことばだと気付(きづ)きます。まことの信仰者(しんこうしゃ)はすべてのことは人間中心ではなく、(かみ)中心であると(しん)じます。みことば((かみ)啓示(けいじ)聖書(せいしょ))を(しん)じて人は(すく)われるのです。

ヨブは自分の命は(かみ)さまからいただいたことを()ります。(かみ)さまを(しん)じる者は最後(さいご)最大(さいだい)苦難(くなん)である()から(すく)われます。

人は、()ぬとき、何一(なにひと)()って()くことができず、その栄誉(えいよ)も彼に(したが)って(くだ)っては()かないのだ。 

詩篇(しへん)49篇17節)

ヨブは(かみ)さまのことばに立ち返ります。ヨブは(かみ)さまなしに自分を(たよ)りにして()(正しい)としていたのです。彼は自分と(かみ)さまとの間をとりもつお(かた)仲介者(ちゅうかいしゃ)イエス様)を(しん)じました。(かみ)さまはヨブを(とお)して(かみ)さまと人間を和解(わかい)してくださる(つみ)からの(すく)い主であるイエス様を私たちに(あき)らかにしてくださいました。

(しん)じる者は死後(しご)に会うイエス様を今、苦難(くなん)の中にあって出会えるのです。

私は()っている。私を(あがな)(かた)()きておられ、(のち)の日に、ちりの上に立たれることを。私の(かわ)が、このようにはぎとられて(のち)、私は、私の(にく)から(かみ)を見る。この(かた)を私は自分(じぶん)自身(じしん)で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで()()るばかりだ。 

(ヨブ記19章25-27節)

人生を支える2本の柱~あなたのすべてを知るお方が必要

詩篇139篇1-16節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月17日

<聖書>

指揮者(しきしゃ)のために。ダビデの賛歌(さんか)

(しゅ)】よ。あなたは私を(さぐ)り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを(とお)くから()()られます。あなたは私の(あゆ)みと私の()すのを見守(みまも)り、私の(みち)をことごとく知っておられます。ことばが私の(した)にのぼる前に、なんと【(しゅ)】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を()(かこ)み、御手(みて)を私の上に()かれました。そのような知識(ちしき)は私にとってあまりにも不思議(ふしぎ)、あまりにも高くて、(およ)びもつきません。

私はあなたの御霊(みたま)から(はな)れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前(みまえ)(はな)れて、どこへのがれましょう。たとい、私が(てん)(のぼ)っても、そこにあなたはおられ、私がよみに(とこ)(もう)けても、そこにあなたはおられます。私が(あかつき)(つばさ)をかって、(うみ)()てに()んでも、そこでも、あなたの御手(みて)が私を(みちび)き、あなたの右の手が私を()らえます。

たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の(まわ)りの(ひかり)よ。(よる)となれ」と言っても、あなたにとっては、やみも(くら)くなく(よる)(ひる)のように(あか)るいのです。(くら)やみも(ひかり)も同じことです。

それはあなたが私の内臓(ないぞう)(づく)り、母の(たい)のうちで私を()()てられたからです。私は感謝(かんしゃ)します。あなたは私に、(くす)しいことをなさって(おそ)ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに(づく)られ、()(ふか)(ところ)仕組(しく)まれたとき、私の骨組(ほねぐ)みはあなたに(かく)れてはいませんでした。あなたの目は胎児(たいじ)の私を見られ、あなたの書物(しょもつ)にすべてが、書きしるされました。私のために(つく)られた日々(ひび)が、しかも、その一日(いちにち)もないうちに。

詩篇(しへん)139篇1-16節)

<説教>

150(へん)ある詩篇(しへん)半数(はんすう)は神さまに(たす)けを(もと)める(いの)りです。その大半(たいはん)はダビデが書いた詩篇(しへん)です。彼は名もない羊飼(ひつじか)いからイスラエルの王となりました。詩篇(しへん)にはひとりの人間としてのダビデの正直(しょうじき)告白(こくはく)があります。

あなたはどこにいても何をしていても、自分から(はな)れることはできません。もうひとりあなたと一緒(いっしょ)にいる(かた)、それが神さまです。神さまはあなたのことを(すべ)てご存知(ぞんじ)です。

神さまは、あなたが話す前にその言葉(ことば)を知っています。あなたが何かをする時、その動機(どうき)さえも知っています。あなたの(こころ)(ふか)内面(ないめん)をご存知(ぞんじ)なのです。

(つく)られたもので、神の前で(かく)れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが(はだか)であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明(べんめい)をするのです。

(へブル人への手紙4章13節)

あなたは、ひとりで(さみ)しく、偶然(ぐうぜん)に生まれたのではありません。あなたが両親(りょうしん)から生まれる前から、神さまはあなたをご存知(ぞんじ)でした。聖書(せいしょ)によると、この世界(せかい)(つく)られる前からあなたの人生(じんせい)は神さまによって(さだ)められていました。神さまはあなたの存在(そんざい)を愛しておられるのです。

あなたの人生(じんせい)にはふたつの(はしら)があります。ひとつはあなたの意志(いし)です。もうひとつは神さまの御心(みこころ)(おもい)です。あなたの人生(じんせい)という家がしっかりと()つには、このふたつの(はしら)必要(ひつよう)です。

あなたがどんなに努力(どりょく)して頑張(がんば)っても、本当に(ゆた)かな人生(じんせい)には到達(とうたつ)できません。神さまの御心(みこころ)()り、自分の人生(じんせい)が神さまによって()()げられなければなりません。神さまはあなたに使命(しめい)を与え、あなたの人生(じんせい)にご計画(けいかく)をお()ちなのです。それはあなたが(かんが)える人生(じんせい)とはまったく(ちが)うかも()れません。しかし、神さまには完全(かんぜん)なご計画(けいかく)です。

人は(こころ)に自分の(みち)(おも)(めぐ)らす。しかし、その人の(あゆ)みを(たし)かなものにするのは【(しゅ)】である                                 

箴言(しんげん)16章9節)

ダビデは王さまになるまでに、試練(しれん)屈辱(くつじょく)経験(けいけん)しました。それは神さまがダビデを訓練(くんれん)して信仰(しんこう)の人とするためでした。神さまにひざまずき、神さまに信頼(しんらい)する(もの)となるためでした。

また、ダビデは自分の(つみ)(けが)れに(くる)しみました。しかし、神さまの御心(みこころ)はそのことを()めるのではなく、ダビデが正直(しょうじき)に自分の(つみ)やあやまちやを神さまに告白(こくはく)するなら、(つみ)をゆるし、けがれをきよめることでした。

神さまの御心(みこころ)()り、神さまとともに生きるためには、まずイエス様を(しん)じることから(はじ)まります。このお(かた)が人間のすべての(くる)しみをご存知(ぞんじ)で、人間の(つみ)をゆるすために、十字架(じゅうじか)()んでよみがえられたのです。

あなたはひとりぼっちではありません。イエス様があなたを()っておられ、いつも(とも)におられます。

ダビデの賛歌(さんか)


(しゅ)】は私の羊飼(ひつじか)い。私は、(とぼ)しいことがありません。
(しゅ)は私を(みどり)牧場(ぼくじょう)()させ、いこいの水のほとりに(ともな)われます。
(しゅ)は私のたましいを生き返らせ、御名(みな)のために、私を()(みち)(みちび)かれます。
たとい、()(かげ)(たに)を歩くことがあっても、私はわざわいを(おそ)れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの(つえ)、それが私の(なぐさ)めです。
私の(てき)の前で、あなたは私のために食事(しょくじ)をととのえ、私の頭に(あぶら)をそそいでくださいます。私の(さかずき)は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の(かぎ)り、いつくしみと(めぐ)みとが、私を()って()るでしょう。私は、いつまでも、【(しゅ)】の家に()まいましょう。

(詩篇23篇)

過去にとらわれない。赦されて生きる

ヨハネの福音書21章14-22節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月10日

<聖書>

イエスが、死人(しにん)の中からよみがえってから、弟子(でし)たちにご自分を(あらわ)されたのは、すでにこれで三度目である。
彼らが食事(しょくじ)()ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを(あい)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。(しゅ)よ。私があなたを(あい)することは、あなたがご(ぞん)じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊(こひつじ)()いなさい。」
イエスは(ふたた)び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを(あい)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。(しゅ)よ。私があなたを(あい)することは、あなたがご(ぞん)じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの(ひつじ)を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを(あい)しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを(あい)しますか」と言われたので、心を(いた)めてイエスに言った。「(しゅ)よ。あなたはいっさいのことをご(ぞん)じです。あなたは、私があなたを(あい)することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの(ひつじ)()いなさい。
まことに、まことに、あなたに()げます。あなたは(わか)かった時には、自分で(おび)()めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を()ばし、ほかの人があなたに(おび)をさせて、あなたの行きたくない所に()れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を(あらわ)すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに(したが)いなさい。」
ペテロは()()いて、イエスが(あい)された弟子(でし)があとについて来るのを見た。この弟子(でし)はあの晩餐(ばんさん)のとき、イエスの右側(みぎがわ)にいて、「(しゅ)よ。あなたを裏切(うらぎ)る者はだれですか」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「(しゅ)よ。この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが(のぞ)むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに(したが)いなさい。」

(ヨハネの福音書21章14-22節)

<説教>

人間にはどうしても()えられないことがあります。人生に「もしも…」はないと言われますが、過去(かこ)失敗(しっぱい)(あやま)ちをやり(なお)すことはできません。
ペテロはイエス様が十字架(じゅうじか)()けられる前に、自分(じぶん)可愛(かわい)さにイエス様を裏切(うらぎ)って見捨(みす)てました。彼はそれから故郷(ふるさと)のガリラヤへ帰り、もとの漁師(りょうし)仕事(しごと)(もど)りました。しかし、何か大切(たいせつ)なものを(うしな)ったようでした。

人は過去(かこ)(つみ)をいくら()やんでも()めても元に(もど)りません。何かに没頭(ぼっとう)して過去(かこ)(わす)れようとしたり、()いことをして、自分を満足(まんぞく)させようとしても、それは一時的(いちじてき)根本的(こんぽんてき)解決(かいけつ)にはならないのです。ましてや、(くる)しみ、(かな)しみ、不安(ふあん)(おそ)れから()げるために死を(えら)ぶことは、解決(かいけつ)どころか、もっとも大きな(つみ)(おか)すことになるのです。聖書(せいしょ)は言います。

わたしは、だれが死ぬのも(よろこ)ばないからだ。──神である(しゅ)御告(みつ)げ──だから、()(あらた)めて、()きよ。

(エゼキエル書18:32)

もし、あなたがもう今までの罪深(つみぶか)()(かた)をやめたい。私は人間らしく正しく、真実(しんじつ)()きていきたいと(ねが)っても、具体的(ぐたいてき)にどうすればいいのかわからないかもしれません。
あなたの過去(かこ)(あやま)ちを()める人がいても、また自分で自分を()めて、過去(かこ)から新しく始めることができないとしても、神さまはあなたの(つみ)()めることはありません。あなたの(つみ)(ゆる)したいと、ひとり子のイエス様を十字架(じゅうじか)につけてくださったのです。

あなたは今まで(だれ)(したが)ってきましたか。ペテロは十字架(じゅうじか)で死なれよみがえられたイエス様を愛しているか問われます。(だれ)よりもペテロは自分を愛し、自分に(したが)ってきたのです。

次の聖書(せいしょ)のみことばを(しん)じて、あなたの(つみ)身代(みが)わりのためにイエス様が十字架(じゅうじか)で死なれたことを(しん)じるなら、あなたの(つみ)はすべて(ゆる)されます。神さまとの正しい関係(かんけい)()きる者に新しく変えられます。

そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの(つみ)をその()()われました。それは、私たちが(つみ)(はな)れ、()のために()きるためです。キリストの()(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、(ひつじ)のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者(ぼくしゃ)であり監督者(かんとくしゃ)である(かた)のもとに(かえ)ったのです。

(ペテロの手紙第一2:24-25

あなたの人生(じんせい)はみじめで、どうでもいい偶然(ぐうぜん)なものではありません。どうか(だれ)かの人生(じんせい)(くら)べないでください。神さまが用意(ようい)された、かけがえのないあなたのための祝福(しゅくふく)人生(じんせい)なのです。

あなたが過去(かこ)(つみ)(くる)しみで人生(じんせい)をあきらめないために、イエス様はあなたを愛し、十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。その愛の意味(いみ)(しん)じるなら、(だれ)とも(くら)べられないあなたの人生(じんせい)の大切な意味(いみ)が必ずわかります。

あなたは生まれてから死ぬまでの間に、イエス様を(しん)じて、神さまと和解(わかい)して、(つみ)(ゆる)された者として新しく()きてゆけるのです。

ただ一つわかること。今、私は見える

ヨハネの福音書9章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月3日

またイエスは(みち)途中(とちゅう)で、()まれつきの盲人(もうじん)()られた。

弟子(でし)たちは(かれ)についてイエスに質問(しつもん)して()った。「先生(せんせい)(かれ)盲目(もうもく)()まれついたのは、だれが(つみ)を犯したからですか。この人ですか。その両親(りょうしん)ですか。」

イエスは答えられた。「この人が(つみ)(おか)したのでもなく、両親(りょうしん)でもありません。(かみ)のわざがこの(ひと)(あらわ)れるためです。

わたしたちは、わたしを(つか)わした(かた)のわざを、(ひる)(あいだ)(おこな)わなければなりません。だれも(はたら)くことのできない(よる)()ます。

わたしが()にいる(あいだ)、わたしは()(ひかり)です。」

イエスは、こう()ってから、地面(じめん)につばきをして、そのつばきで(どろ)(つく)られた。そしてその(どろ)盲人(もうじん)()()って()われた。

()って、シロアム((やく)して()えば、(つか)わされた(もの))の(いけ)(あら)いなさい。」そこで、(かれ)()って、(あら)った。すると、()えるようになって、帰って()った。

(ヨハネの福音書9章1-7節)

【説教】

【生まれつきという人間の運命(うんめい)

私は盲目(もうもく)であったのに、今は見えるということです。

(ヨハネの福音書9:25

この生まれつきの盲人(もうじん)はイエス様によって目が開かれました。彼は生きとし生けるものや自然(しぜん)風景(ふうけい)が見えるようになりました。信仰(しんこう)(あた)えられ、見えないものを信じる者になったのです。イエス様が神さまだとわかって、また自分の以前(aいぜん)罪深(つみぶか)い姿を知ったのです。イエス様を信じる前の古い自分と、信じた後、新しく変えられた自分がわかったのです。

この反対(はんたい)記事(きじ)聖書(せいしょ)創世記(そうせいき)3章の人間に(つみ)が入った出来事です。

それ以来(いらい)すべての人間は(つみ)(びと)として生まれてきます。見えない神がわからず、自分の(つみ)がわからない状態(じょうたい)で生まれます。

生まれつきの盲人(もうじん)がイエス様の()った(どろ)で目がふさがれ、池まで歩いている姿は人から見れば(おろ)かで(わら)われるかも知れません。しかし、信仰(しんこう)とは一見(いっけん)(おろ)かに見えるのです。しかし、人からどう見られようとも、心から(うたが)わずにまっすぐに信じなければなりません。

キリストが十字架(じゅうじか)にかけられて(ころ)されるときもそうでした。しかし、(つみ)の生き方から(すく)い出され、生まれ変わり、目が見えるようになるには、この(おろ)かにも思われるキリストの十字架(じゅうじか)事実(じじつ)(しん)じる()(がい)ないのです。多くの人が十字架(じゅうじか)など何の意味もない、今の進化(しんか)した科学(かがく)万能(ばんのう)時代(じだい)に何の力もない、ただの聖書(せいしょ)のお話しだと終わらせている、この十字架(じゅうじか)にこそ唯一の(すく)いがあるのです。

運命(うんめい)、血のつながり、弱さやハンディキャップからの解放(かいほう)

先祖(せんぞ)(のろ)いで生まれつきの盲人(もうじん)として生まれ、乞食(こじき)以外(いがい)生きる道はなく、彼はその人生を受け入れていたかもしれません。その自分の運命(うんめい)(だれ)にも変えられないとなかばあきらめていたかも知れません。

しかし、イエス様は言います。「あなたの、どうしようもない運命(うんめい)は、あなたの(つみ)でも、両親の(つみ)のせいでもない。神さまの栄光(えいこう)奇蹟(きせき)(あらわ)れるためだ」と。

またイエスは道の途中(とちゅう)で、生まれつきの盲人(もうじん)を見られた。

(ヨハネの福音書9:1

目が見えない盲人(もうじん)にはこのイエス様のまなざしは気付きません。しかし、私たちにはわからなくても、全知全能(ぜんちぜんのう)のイエス様はあなたを見ておられます。

いかなる運命(うんめい)があなたを(しば)っていたとしても、あなたの血筋(ちすじ)がどうであろうと、(だれ)もあなたの価値(かち)を認めてくれなくても、自分の力ではどうしても暗闇(くらやみ)の中からどうして光の()す場所へ出ることができないとしても、そのあなたの運命(うんめい)に神さまは働かれるのです。奇蹟(きせき)を起こされるのです。

生まれつきの盲人(もうじん)の目を開くことなど聞いたことがない。前代(ぜんだい)未聞(みもん)でありえない奇蹟(きせき)を彼は体験したのです。本当の奇蹟(きせき)は今、彼が神を信じて礼拝(れいはい)していることです。

これは説明(せつめい)のつかない根拠(こんきょ)のない奇蹟(きせき)ではありません。キリストが2000年前にカルバリの十字架(じゅうじか)で死んでよみがえり、あなたの運命(うんめい)を変えてくださったのです。

神さまから遠く(はな)れて、(やみ)の中を(つみ)(ぶか)く生きて、やがて死んでしまう運命(うんめい)から、キリストを信じて生まれ変わり、イエスのふところに帰り、光の中に生きる者に変えてくださったのです。

まことに、まことに、あなたがたに()げます。わたしのことばを聞いて、わたしを(つか)わした方を信じる者は、永遠(えいえん)のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

(ヨハネの福音書5:24