マタイの福音書9章9-13節より
2022年7月31日
<聖書>
イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
(マタイの福音書9章9-13節)
<説教>
イエスは罪人の友です。罪人に呼びかけて、私について来なさいと言われます。マタイはイエスの呼びかけにすぐに、何もかも捨てて従いました。
信仰とは神さまの言葉(聖書)を信じて応えることです。あなたの意志と決断です。神さまのことを理解しようとするならいつまでも信仰に入ることはできません。今までの生き方を悔い改めて、神を信じることから新しく始まるのです。信じるなら必ず神様があなたを助け、道を開いてくださいます。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。
(マタイの福音書9章2節)
イエスは病を癒しました。またイエスは罪を赦す権威をお持ちでした。細胞が新しくされて病は癒されます。人の内面が根底から造り変えられて罪が赦されます。
人間は外側しか変えられませんが、神さまは人間を内側から造り変えることができます。心が新しくされる→動機がきよめられる→言葉や行いが変わるのです。人間(教育・道徳・自己啓発など)の方法では、言葉や行いを変える→?→?。で終わります。キリストの十字架のみわざは人間の理解を超えた命なのです。
取税人マタイはイエスを信じて、価値観が変えられました。自分のためだけに使ってきたお金を、イエス様のために、隣人のために盛大に振る舞いました。
人はキリスを信じて、罪が赦され、きよめられ、変わることが出来るのです。愛する心が生まれるのです。
イエス様の招きに応えないならあなたは罪人のまま決して変わることはできません。神の目からはすべての人間が罪人だと聖書は言います。罪は必ず永遠の滅びという死に至る病です。罪の癒しは、十字架であなたの罪のために死なれたイエスがよみがえられたことを信じる以外ありません。
イエスの招きに応える者はイエス様と一緒に食事をします。ともに食事をとるのは親友であるしるしでした。
旧約聖書の預言者ホセアは不貞の姦淫の女を妻にめとります(ホセア記)。
堕落したイスラエルがまことの神様を捨てて外国の神を崇めてみだらな礼拝を行いました。イスラエルの不真実に対して、神さまの忍耐深い愛をあらわしています。
そして、新約の今、イエスが罪と汚れの奴隷である私たちと真実な永遠の契りを交わして、結婚してくださることを預言しています。
イエスはあなたに呼びかけています。それは罪人であるあなたの友となるためです。
神さまから離れて罪の中に生きるあなたにイエス様は忍耐深い愛をもって、あなたが神さまに立ち返るように今も呼びかけています。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
(マタイの福音書9章12-13節)