苦難の中であなたと神の間にいるお方

ヨブ記1章20-22節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月24日

<聖書>

このとき、ヨブは立ち上がり、その(うわ)()()()き、(あたま)をそり、()にひれ()して礼拝(れいはい)し、そして言った。「私は(はだか)(はは)(たい)から出て来た。また、(はだか)で私はかしこに(かえ)ろう。【(ぬし)】は(あた)え、【(ぬし)】は()られる。【(ぬし)】の御名(みな)はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても(つみ)(おか)さず、(かみ)愚痴(ぐち)をこぼさなかった。

(ヨブ記1章20-22節)

<説教>

ヨブは潔白(けっぱく)で正しい人でした。(かみ)さまをおそれて(あく)から(とお)ざかっていました。彼は苦難(くなん)の中でも(つみ)(おか)さずに(かみ)さまをほめたたえました。
しかし、ヨブは一度(いちど)家族(かぞく)家財(かざい)(うしな)い、体中(からだじゅう)がひどい(やまい)(おか)されました。(つま)友人(ゆうじん)たちの(なぐさ)めも、ヨブの心には(まった)(とど)きませんでした。彼の苦難(くなん)(なげ)いても忍耐(にんたい)してもどうにもなりませんでした。
ヨブは自分が正しく生きてきたことを()っていました。その自分が何故(なぜ)これほどの(くる)しみを受けるのかわかりませんでした。

ヨブが(もっと)もおそれたことは、()ぬこともできず(くる)しみ()(つづ)けることでした。あまりの(くる)しみに彼は、生まれたことをのろい、()(ねが)います。しかし、死後(しご)がわからない不安(ふあん)(おそ)れがありました。また(かみ)さまに誤解(ごかい)されたまま()にたくありませんでした。結局(けっきょく)、ヨブは()ぬことが問題(もんだい)解決(かいけつ)ではないとわかります。

すべての解決(かいけつ)(かみ)さまとの関係(かんけい)回復(かいふく)なのです。ヨブの(くる)しみの原因(げんいん)は、親族(しんぞく)友人(ゆうじん)にわかってもらえず、見捨(みす)てられることではなかったのです。彼の(くる)しみは(かみ)さまとの信頼(しんらい)関係(かんけい)(なく)くしたことでした。

ヨブは最後(さいご)(なぐさ)めは(かみ)さまと(かみ)さまのことばだと気付(きづ)きます。まことの信仰者(しんこうしゃ)はすべてのことは人間中心ではなく、(かみ)中心であると(しん)じます。みことば((かみ)啓示(けいじ)聖書(せいしょ))を(しん)じて人は(すく)われるのです。

ヨブは自分の命は(かみ)さまからいただいたことを()ります。(かみ)さまを(しん)じる者は最後(さいご)最大(さいだい)苦難(くなん)である()から(すく)われます。

人は、()ぬとき、何一(なにひと)()って()くことができず、その栄誉(えいよ)も彼に(したが)って(くだ)っては()かないのだ。 

詩篇(しへん)49篇17節)

ヨブは(かみ)さまのことばに立ち返ります。ヨブは(かみ)さまなしに自分を(たよ)りにして()(正しい)としていたのです。彼は自分と(かみ)さまとの間をとりもつお(かた)仲介者(ちゅうかいしゃ)イエス様)を(しん)じました。(かみ)さまはヨブを(とお)して(かみ)さまと人間を和解(わかい)してくださる(つみ)からの(すく)い主であるイエス様を私たちに(あき)らかにしてくださいました。

(しん)じる者は死後(しご)に会うイエス様を今、苦難(くなん)の中にあって出会えるのです。

私は()っている。私を(あがな)(かた)()きておられ、(のち)の日に、ちりの上に立たれることを。私の(かわ)が、このようにはぎとられて(のち)、私は、私の(にく)から(かみ)を見る。この(かた)を私は自分(じぶん)自身(じしん)で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで()()るばかりだ。 

(ヨブ記19章25-27節)