ルカの福音書12章13-21節より
2022年8月21日
<聖書>
群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
(ルカの福音書12章13-21節)
<説教>
この金持ちは、穀物も倉も財産も、すべて自分のものだと考えました。そして命までも自分のものだと思ったのです。金銭や世の富は海水のようなものです。飲めば飲むほど渇くのです。いくら持っても満足することはないのです。
この世の富に対しては次のような姿勢でいるべきです。
- 第一としない② 頼みとしない③ いつまでも続かないもの(永遠のものではない)
この金持ちはこの世の富で命までも保証されると考えました。富は決して万能ではありません。死後の保証には何の役にも立ちません。
おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──
(詩篇49:6-8)
富を与えるのは神さまです。すべてを創造された神さまは、この世の見えるもの(物質世界)、見えないもの(霊的世界)の主権者です。この金持ちを豊作にしたのは神さまなのです。そして命を取り去られたのも神さまです。
この「取り去られた」の原語には貸していたものを返すように求める意味があります。
人は貧しさには耐え抜く強さがあっても豊かさの中では快楽にふけりたいという弱さがあります。豊かさの中で、その人の正しさの基準や生きる目的が明らかになります。一時的な喜びに生きるか。それとは比べることのできない永遠の喜びを信じるかです。
聖書のザアカイという人物は巨万の富を手にしましたが、その心は孤独でした。
豊かな人生は「持つ」ことではなく「関係に生きる」ことにあるのです。
聖書の中でパウロは、貧しさの中でも、豊かさの中でも生きる秘訣は、神さまに感謝することだと言います。
神さとの関係こそが、その人の生き方の豊かさを決定するのです。
この金持ちも、ザアカイも財産を自分のためだけに使いました。誰かのために使うことができませんでした。
神さまは、イエス・キリストを私たちのために十字架に遣わされました。それは、財産も命も自分のものだと考える自己中心な私たちの罪のためです。神さまよりも金銭を神として追い求める私たちの生き方を正すためです。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
(コリント人への手紙 第二8:9)
イエス様を信じる者は、神の愛とあわれみを受けて変えられます。受けるよりも与える生き方に変えられます。誰かのために生きる、愛と感謝の心を持つことこそ、豊かな生き方です。そのとき、あなたはもちろん、神さまが喜んでいることが必ずわかります。あなたの人生には喜びの関係が溢れることでしょう。
「神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
(コリント人への手紙 第二9:7-8)