コリント人への手紙第一1章10-17節より
2022年10月9日
<聖書>
さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
(コリント人への手紙第一1章10-17節)
<説教>
使徒パウロは福音を世界に伝える者として神様に召されました。福音は人種、社会、経済、教育の壁を越えます。
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1:16)
福音とは、イエス・キリストの十字架の死が、あなたの罪の刑罰の身代わりであると信じるなら罪が赦されて神の子どもとされるというよい知らせ(グッドニュース)です。
この世界にはまことの希望はありません。しかし教会には唯一の救いの道、まことの希望の福音があります。これは世にはないキリストの教会だけがもっている希望です。
キリストが生まれる500年も前の黄金時代のギリシャの哲学者は、人間にとってもっとも良いことは、生まれないことだと説きました。もうずっと昔に神は死んだと言われて、それを人々は信じています。神を捨て去り、すべての善も真理も人間にあるという思想はおそるべき出口のない死の世界です。人間がサルから偶然生まれたと唱える進化論はすべての存在には意味も目的も価値もない、すべてはむなしいという絶望の虚無の人生に追い込みます。
ジャンクフード(冷凍食品、ファーストフード、インスタント食品など)はカロリーだけが高く栄養価はあまりありません。これを食べ続けると体を害し、精神や心の成長にも悪い影響が出ると言われています。
この世の哲学、思想はとても難しく、喜びも希望もがなく、たんに頭の知識、理論であり、霊的に成長することはできません。
しかし、福音~イエス・キリストの十字架の救いは、聞く者の心とからだにやさしく、希望を与えるよい知らせです。子どもでも理解して信じて救われるのです。国も年齢も習慣も関係なく、どんな人生であったとしても、いかなる境遇にある人にも、求める人の心に福音は届きます。誰であっても信じるなら救われます。
兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、 (Ⅰコリント15:1-4)
これが聖書にある福音です。福音は、知識や理論でなく、実際にあなたに関わるよい知らせです。それを信じた者には希望と平安が現実のものとなります。キリストはあなたの罪のために十字架で死なれました。すべての人(あなたも含まれる)がよみがえる、その最初(初穂)としてキリストは三日目によみがえられました。死後にすべての人は神のさばきを受けますが、あなたが、この福音にどう答えて生きたかによって神の子どもとされるか、そうでないかが決定します。
神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(Ⅰペテロ1:3)
自分の言葉や行いのいかなることも、福音をさえぎることがないようにすることがパウロの哲学であり思想でした。キリストを信じた者はこの福音をそのように宝のように愛する者です。あなたもイエス様の福音を信じてみませんか。
シジフォスは死んで黄泉に行った。ところが地上に戻されたのであった。黄泉に呼び返されたとき、彼は帰ることを拒んだ。人生の快楽を満喫したからである。罰として彼は連れ戻され、丘のいただきまで大きな岩を押し上げる刑を宣告された。しかし岩をそこまで押し上げると、転げ落ちてしまう。彼はふもとまで苦労して降りていき、もう一度岩を押し上げるが、再び転げ落ちるだけであった。 『シジフォスの神話』アルベール・カミュ
シジフォスはこの工程を果てしなく繰り返すように運命づけられた。
彼の努力は、意味ある結果をまったく生み出さない。
存在するものに意味も目的も価値もないという実存主義、虚無主義、神は死んだ思想を代表する文学の一つ。
わたしの行く手は平安だ。 死へのあらゆる働きかけに対しても、ひそかなる守護がなされている。 すべての安定性が失われても、なお平安だ。たおされても平安だ。 たとえ、このあわれな肢体が滅んでも、なおまさって平安だ。 『平安』ルーパート・ブルック
たとえわたしが暗闇の恐ろしい雲海に入ったとしても、それはひと時だ。
わたしは神の灯を胸に抱く。
その輝きは早晩、暗闇を貫く。
わたしはいつしか脱出する。
『パラサルサス』ブラウニング
イエス様の福音が与える平安をぜひあなたもお受けください。