コリント人への手紙第一1章18-25節より
2022年10月16日
<聖書>
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
(コリント人への手紙第一1章18-25節)
<説教>
十字架刑とは、裸で手首と足首を約15センチのくぎで木に打ち付けられ、激痛と出血多量と呼吸困難の末に心臓破裂で死に至ります。その期間は数日から一週間以上と言われます。人々の前で辱められ、人間の尊厳を奪われる残酷な死刑の方法です。
イエスは神を名のった刑罰で、むち打たれ、十字架刑により処刑されました。救い主キリストを待ち望んでいたユダヤ人にとって、あざけられ、悲惨で弱々しい死に方をしたイエスが神の救い主キリストであるとは絶対に信じられませんでした。
ギリシャ人にとっても神とは人間とはかけ離れた崇高な存在でした。人間としてこの世に来られ、よりによって汚らわしい十字架と関わる者であるなど考えられませんでした。キリストが人間イエスとして誕生したことも死んで三日後の復活も愚かな話でした。
今もキリストの十字架の話を聞くと、いやな思いを持つ人がいます。暗い不吉な話に思うかも知れません。あなたの罪やけがれの身代わりにキリストは十字架で死なれたことは、ばかげていると思うかもしれません。
人間の罪とはとんでもなく邪悪な状態で生きていることを言うのではありません。人間が自分の力では決して罪の現実から救い出されない姿を言っているのです。
人は自分の知恵によって神のことはわかりません。それが神の知恵だと聖書は言います。そうです。キリストの十字架を信じるなら罪深い生き方から救われるということは人間の努力では決してわからないのです。
十字架は人間の罪の赦しをあらわすにふさわしいシンボルです。
十字架はあなたの罪を表わしています。同時に十字架はあなたの罪の赦しをあらわしています。
また十字架はあなたの罪の刑罰をあらわしており、同時にその刑罰を身代わりに受けてくださる神の愛をあらわすのです。
キリストの十字架によってしかあなたの罪は赦されません。神に対して犯した人間の罪はそれほど重いものなのです。罪のない聖いキリストの命だけが人間の罪の身代わりとなることができるのです。
このことをただ信じて受け取るなら、あなたは救われます。それ以外の方法はどこにもないのです。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)
そしてどうしてありえようか、私が
救い主の血潮の益を得るということが?
主の苦痛を引き起こした私のために死なれたのか
主を死に至るまで悩ました私のために?
驚くべき愛!どうしてありえようか
わが神よ、なんじがわがために死にたもうということが
(チャールズ・ウェスレー、讃美歌230番「み神の恵みを」の原詞)