信仰の成長を目指して

コリント人への手紙第一3章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月27日

<聖書>

さて、兄弟(きょうだい)たちよ。私は、あなたがたに()かって、御霊(みたま)(ぞく)する人に(たい)するようには(はな)すことができないで、(にく)(ぞく)する人、キリストにある幼子(おさなご)(たい)するように(はな)しました。私はあなたがたには(ちち)(あた)えて、(かた)食物(しょくもつ)(あた)えませんでした。あなたがたには、まだ無理(むり)だったからです。(じつ)は、(いま)でもまだ無理(むり)なのです。あなたがたは、まだ(にく)(ぞく)しているからです。あなたがたの(あいだ)にねたみや(あらそ)いがあることからすれば、あなたがたは(にく)(ぞく)しているのではありませんか。そして、ただの人のように(あゆ)んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく」と()えば、(べつ)の人は、「私はアポロに」と()う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは(なん)でしょう。パウロとは(なん)でしょう。あなたがたが信仰(しんこう)に入るために(もち)いられたしもべであって、(しゅ)がおのおのに(さず)けられたとおりのことをしたのです。私が()えて、アポロが水を(そそ)ぎました。しかし、成長(せいちょう)させたのは(かみ)です。それで、たいせつなのは、()える(もの)でも水を(そそ)(もの)でもありません。成長(せいちょう)させてくださる(かみ)なのです。()える(もの)と水を(そそ)(もの)は、一つですが、それぞれ自分(じぶん)自身(じしん)(はたら)きに(したが)って自分(じぶん)自身(じしん)報酬(ほうしゅう)()けるのです。私たちは(かみ)協力者(きょうりょくしゃ)であり、あなたがたは(かみ)(はたけ)(かみ)建物(たてもの)です。

(コリント(じん)への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章1-9節)

<説教>

コリント教会(きょうかい)信徒(しんと)たちは、キリストを信じて御霊(みたま)()けていましたが、御霊(みたま)(ぞく)するのではなく、(にく)(ぞく)していました。つまり、御霊(みたま)に従ってではなく、自分の人間的な力によって、神の(ねが)う人になろうとしていたのです。

コリント教会(きょうかい)分裂(ぶんれつ)して、分派(ぶんぱ)をつくって(たが)いに敵対(てきたい)していました。パウロはそのことによって、彼らが御霊(みたま)ではなく、自分の(にく)(ぞく)しているとわかりました。御霊(みたま)によって生きるなら、一致(いっち)和合(わごう)があります。しかし、(にく)に従うなら、分裂(ぶんれつ)分派(ぶんぱ)敵対(てきたい)(しょう)じます。

(にく)の行いは明白(めいはく)であって、次のようなものです。不品行(ふひんこう)(けが)れ、好色(こうしょく)

偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)魔術(まじゅつ)敵意(てきい)(あらそ)い、そねみ、(いきどお)り、党派(とうは)(しん)分裂(ぶんれつ)分派(ぶんぱ)、」

(ガラテヤ5:19-20

キリストを(しん)じて(すく)われた後も信仰(しんこう)成長(せいちょう)必要(ひつよう)です。信仰(しんこう)成長(せいちょう)とはどういうことを言うのでしょうか。みことばを(おぼ)え、祈りに励み、奇跡や癒しを行い、奉仕や献金を多く捧げることでしょうか。コリント教会(きょうかい)信徒(しんと)はまさにそのようでした(Ⅰコリント12)。

しかし、信仰(しんこう)成長(せいちょう)は、(あい)することにおいて成長(せいちょう)しているかどうかなのです。キリストを(しん)じて、信仰(しんこう)の歩みを始めて、あなたは去年より(あい)する者に変えられているでしょうか。御霊(みたま)によって神を(あい)して、人を(あい)する者とされることこそが、信仰(しんこう)成長(せいちょう)なのです。

様々の御霊(みたま)賜物(たまもの)()けても、そこに(あい)がないならまったく価値(かち)がないのです。

「たとい、私が人の異言(いげん)や、御使(みつか)いの異言(いげん)で話しても、(あい)がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言(よげん)賜物(たまもの)を持っており、またあらゆる奥義(おうぎ)とあらゆる知識(ちしき)とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰(しんこう)を持っていても、(あい)がないなら、何の()うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を(まず)しい人たちに()(あた)え、また私のからだを()かれるために(わた)しても、(あい)がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:1-3)

兄弟(きょうだい)たち。あなたがたは、自由(じゆう)(あた)えられるために()されたのです。ただ、その自由(じゆう)(にく)(はたら)機会(きかい)としないで、(あい)をもって(たが)いに(つか)えなさい。」(ガラテヤ5:13)

キリストの十字架(じゅうじか)(ゆる)しをいただいて、神の(あい)感謝(かんしゃ)して、父なる神を見上げ、人を(てき)競争(きょうそう)相手(あいて)としてではなく、(あい)する存在(そんざい)として生きる者に変えられていきます。

(ふる)い自分を十字架(じゅうじか)に付けて、御霊(みたま)支配(しはい)にゆだねるなら、み言葉を通して御霊(みたま)(はたら)らかれ、(つみ)(けが)れがきよめられ、キリストに()た者に変えられていきます。それは御霊(みたま)()として(むす)ばれていきます。

「しかし、御霊(みたま)の実は、(あい)(よろこ)び、平安(へいあん)寛容(かんよう)親切(しんせつ)善意(ぜんい)誠実(せいじつ)柔和(にゅうわ)自制(じせい)です。このようなものを(きん)ずる律法(りっぽう)はありません。

キリスト・イエスにつく者は、自分の(にく)を、さまざまの情欲(じょうよく)欲望(よくぼう)とともに、十字架(じゅうじか)につけてしまったのです。

もし私たちが御霊(みたま)によって生きるのなら、御霊(みたま)(みちび)かれて、(すす)もうではありませんか。」(ガラテヤ5:22-25)

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