十字架への道

マタイの福音書26章47-56節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月5日

<聖書>

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりであるユダがやって来た。(つるぎ)(ぼう)を手にした大ぜいの群衆(ぐんしゅう)もいっしょであった。群衆(ぐんしゅう)はみな、祭司(さいし)(ちょう)(たみ)長老(ちょうろう)たちから()()けられたものであった。イエスを裏切(うらぎ)る者は、彼らと合図(あいず)を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆(ぐんしゅう)が来て、イエスに手をかけて()らえた。すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を()ばして(つるぎ)()き、大祭司(だいさいし)のしもべに()ってかかり、その(みみ)()()とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「(つるぎ)をもとに(おさ)めなさい。(つるぎ)()(もの)はみな(つるぎ)(ほろ)びます。それとも、わたしが父にお(ねが)いして、十二(じゅうに)軍団(ぐんだん)よりも多くの御使(みつか)いを、今わたしの配下(はいか)()いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書(せいしょ)が、どうして実現(じつげん)されましょう。」そのとき、イエスは群衆(ぐんしゅう)に言われた。「まるで強盗(ごうとう)にでも()かうように、(つるぎ)(ぼう)()ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、(みや)ですわって(おし)えていたのに、あなたがたは、わたしを()らえなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者(よげんしゃ)たちの(しょ)実現(じつげん)するためです。」そのとき、弟子(でし)たちはみな、イエスを見捨(みす)てて、()げてしまった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章47-56節)

<説教>

ユダの裏切(うらぎ)りによって、イエスはユダヤ指導者(しどうしゃ)たちに逮捕(たいほ)されます。

普通(ふつう)犯人(はんにん)刑事(けいじ)逮捕(たいほ)されるとき、犯人(はんにん)は逃げようとしたり、最後まで抵抗(ていこう)して悪あがきします。しかし、イエスは逮捕(たいほ)されるとき、()げも(かく)れもせず、武装(ぶそう)した何百人の群衆(ぐんしゅう)に、自分からすすんで()らえられました。

イエスの十字架(じゅうじか)はすべて(かみ)(さだ)められた完全(かんぜん)計画(けいかく)でした。イエスが十字架(じゅうじか)の上ですべての人間の(つみ)身代(みが)わりとなられるためでした。イエスは十字架(じゅうじか)への苦難(くなん)の道が、父の(かみ)御心(みこころ)であることを確信(かくしん)して、人間の(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりを()けられたのです。

ペテロは数百人の武装(ぶそう)した群衆(ぐんしゅう)に、(いさ)ましく(けん)で立ち向かいます。しかし、イエスを殺害しようとする本当の(てき)は、(けん)(ぼう)をもった人間ではなく、悪の力、サタンなのです。この悪の力が完全(かんぜん)()(やぶ)られる道はただ一つ、イエスご自身が(かみ)(いか)りの(はい)をお飲みになること、すなわち、十字架(じゅうじか)でその(きよ)い命を(ささ)げることでした。

私たちの(てき)は死であり、(つみ)の力です。その(てき)は決して(おそ)ろしい姿をしていません。それは私たちの日々の生活の中にあるのです。それは心から出てくる悪い考え、人の気持ちを知ろうとしない自己(じこ)中心(ちゅうしん)な考え、自分の欲望(よくぼう)や心の思いを()たすことを人生の第一の目的としてしまったり…(かみ)存在(そんざい)無視(むし)して、(かみ)(したが)わずに生きること。それが(つみ)です。

(つみ)刑罰(けいばつ)は死です。死とはこの世から()()ることではありません。永遠(えいえん)に終わらない(ほろ)びの(くる)しみです。人間はこの(つみ)と死に対してまったく無力です。どんな武器(ぶき)も、勇気(ゆうき)(やく)に立たないのです。しかし、神は人間に(すく)いの道を(そな)えてくださいました。それが十字架(じゅうじか)(すく)いです。

イエスが十字架(じゅうじか)で死なれたのは、あなたの(つみ)のためであると(しん)じて、心を変えて、神により(たの)んで生きようとするなら、あなたは(つみ)刑罰(けいばつ)(ゆる)され、死の(ほろ)びから(すく)い出されます。永遠(えいえん)の命が与えられ天の御国(みくに)に入ることができます。

イエスが十字架(じゅうじか)()かわれたのは、(わる)に対しても(ぜん)をあらわして生きることの模範(もはん)です。そしてイエスは、犠牲(ぎせい)の愛による人間の真実(しんじつ)な生き方を表わされました。そして人間は「苦難(くなん)」によってしか成長(せいちょう)しないことをイエスは十字架(じゅうじか)で教えてくれたのです。

イエスを(しん)じるなら、あなたは愛と真実(しんじつ)の人生に必ず変えられていきます。

「キリストも、あなたがたのために(くる)しみを()け、その足跡(あしあと)(したが)うようにと、あなたがたに模範(もはん)(のこ)されました。キリストは(つみ)(おか)したことがなく、その口に何の(いつわ)りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり(かえ)さず、(くる)しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお(まか)せになりました。そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの(つみ)をその()に負われました。それは、私たちが(つみ)(はな)れ、()のために生きるためです。キリストの()(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

(ペテロの手紙第一2章21-24節)

祈りの友

マタイの福音書26章36-46節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月26日

<聖書>

それからイエスは弟子(でし)たちといっしょにゲツセマネという所に来て、(かれ)らに言われた。「わたしがあそこに行って(いの)っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに()れて行かれたが、イエスは(かな)しみもだえ(はじ)められた。そのとき、イエスは(かれ)らに言われた。「わたしは(かな)しみのあまり()ぬほどです。ここを(はな)れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し(すす)んで行って、ひれ()して(いの)って言われた。「わが父よ。できますならば、この(さかずき)をわたしから()()らせてください。しかし、わたしの(ねが)うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子(でし)たちのところに(もど)って来て、(かれ)らの(ねむ)っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑(ゆうわく)(おちい)らないように、目をさまして、(いの)っていなさい。心は()えていても、肉体は弱いのです。」イエスは二度目(にどめ)(はな)れて行き、(いの)って言われた。「わが父よ。どうしても()まずには()まされぬ(さかずき)でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが(もど)って来て、ご(らん)になると、(かれ)らはまたも(ねむ)っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも(かれ)らを()いて行かれ、もう一度(おな)じことをくり(かえ)して三度目(さんどめ)(いの)りをされた。それから、イエスは弟子(でし)たちのところに()て言われた。「まだ(ねむ)って休んでいるのですか。見なさい。(とき)()ました。(ひと)()罪人(つみびと)たちの手に(わた)されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切(うらぎ)る者が(ちか)づきました。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章36-46節)

<説教>

最後(さいご)晩餐(ばんさん)のあと、十字架(じゅうじか)()かってイエスは弟子(でし)たちを()れて(いの)られました。その場所はオリーブの木に(かこ)まれたゲツセマネ((あぶら)しぼりの意味(いみ))と()ばれます。そこでイエスは人間の(つみ)(さかずき)(さばきの(いきどお)りのぶどう酒)を()()すために、(あせ)()のようにしたたらせて(いの)られました。

イエスの十字架(じゅうじか)の前の(いの)りは、自分の(ねが)いではなく、父なる神のみこころがなされることでした。

弟子(でし)のパウロとヤコブとヨハネは(いの)ることができずに、(つか)れと(かな)しみに(ねむ)りこけてしまいました。

今も、イエスと共に(いの)る者は(けっ)して多くないと言われています。イエスはあなたに(いの)りの友となることを(ねが)われています。

(くる)しみや(かな)しみの意味(いみ)がわからなくても、希望(きぼう)()ざされようとも、(いの)りましょう。どう(いの)っていいのかわからなくても、じつはイエスがあなたのために(いの)ってくださっています。あなたのつたない(いの)りも、イエスの御名(みな)(いの)る時、イエスの(いの)りとされているのです。

体でわかること(目で見る、耳で聞く、鼻でにおう、手や(はだ)(さわ)る)がすべてではありません。あなたの前の現実(げんじつ)問題(もんだい)絶望(ぜつぼう)して、感覚(かんかく)(たよ)りにした誘惑(ゆうわく)()(まか)せてはいけません。

神を(しん)じる者の(いの)りには力があります。(いの)りは必ず答えられます。(いの)ることができず、(つか)れて、(かな)しみの()てに(ねむ)っても弟子(でし)たちはイエスのそばにいました。(いの)りはイエスのそばにいることです。そこにとどまるとき、イエスの(あい)(ゆる)しがあなたを(すく)ってくださいます。

(いの)りによって神があなたを変えてくださいます。状況(じょうきょう)を変えてくださいます。(こころ)が変えられます。知識(ちしき)でも理屈(りくつ)でもありません。あなたは信仰(しんこう)によってそれを実際(じっさい)体験(たいけん)するのです。

神はあなたを神に(いの)る者としてご自身(じしん)()せて(つく)られたのです。(いの)りは神を信じる者の特権(とっけん)であり、(つと)めであり、(はげ)むべきことです。ただし、それは最高(さいこう)の人間の(いとな)みです。

「まことに、あなたがたにもう一度(いちど)()げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上(ちじょう)(こころ)を一つにして(いの)るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

(マタイの福音書18章19-20節)

()まなければ」河野 進
()まなければ (ささ)()ない()(あらた)めの(いの)りがあり
()まなければ ()()ない(すく)いのみ言葉があり
()まなければ ()()ない(めぐ)みの十字架(じゅうじか)があり
()まなければ (しん)()ないいやしの奇蹟(きせき)があり
()まなければ ()()ないいたわりの(あい)があり
()まなければ (ちか)づき()ない(きよ)聖壇(せいだん)があり
()まなければ (あお)()ない(かがや)御顔(みかお)がある
おお ()まなければ人間でさえあり()なかった

キリストのつまずき

マタイの福音書26章30-35節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月19日

<聖書>

そして、賛美(さんび)の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子(でし)たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜(こんや)、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼(ひつじか)いを()つ。すると、(ひつじ)()れは()()りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は(けっ)してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに()げます。今夜(こんや)(にわとり)()く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは(けっ)して(もう)しません。」弟子(でし)たちはみなそう言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章30-35節)

<説教>

最後(さいご)晩餐(ばんさん)でユダがイエスを裏切(うらぎ)りました。その後で、イエスはさらに弟子たちに、あなたがたはみな、私を裏切(うらぎ)ると宣告します。そうです。十字架の前に、イエスの弟子たちはすべてイエスにつまずいたのです。

ユダは自分の欲のためにイエスを裏切(うらぎ)りました。ペテロは自分は絶対(ぜったい)大丈夫(だいじょうぶ)だという自信(じしん)過信(かしん)によってイエスを裏切(うらぎ)ります。

誰も自分の頑張(がんば)りや努力(どりょく)によってイエスを愛して、(したが)(つづ)けることはできません。自分こそ(よわ)い者だ、罪深(つみぶか)い者だと(みと)めるする者こそが、(かみ)に助けを求め、()(あらた)めてイエスに(したが)うことができるのです。

ペテロは、(にわとり)()く前に3度イエスを知らないと言うイエスの予告(よこく)(どお)りに、イエスを(いな)みました。彼はイエスを間違(まちが)いなく愛していました。しかし人間の愛には限界(げんかい)があるのです。

しかし、ペテロはイエスの弟子としての大失敗(だいしっぱい)(はじ)(かく)そうとせず、聖書(せいしょ)の中にはっきりと表わしました。それは、(よわ)さや失敗(しっぱい)罪深(つみぶか)い者をイエスはゆるして、愛して下さる方であることを(みな)さんに知ってもらいたかったからです。

イエスを愛していくとき、あなたは必ず、自分の罪深(つみぶか)さや(けが)れを知ることでしょう。しかしイエスは、あなたの(よわ)さやどうしようもない姿(すがた)をご存知(ぞんじ)なのです。その上で、イエスはあなたを愛してくださいます。あなたをその問題、苦しみ、絶望(ぜつぼう)から(すく)い出すためにこそ、イエスは十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

弟子(でし)たちはイエスを裏切(うらぎ)りましたが、イエスが約束(やくそく)されたのは十字架(じゅうじか)で死んだ後、よみがえり、弟子(でし)たちとガリラヤで会うことです。

自分を裏切(うらぎ)って(はな)()っていく弟子(でし)たちすべてのことをご存知(ぞんじ)でした。しかしその先にある神の約束(やくそく)(ゆる)しと愛です。

あなたはイエスの十字架(じゅうじか)のゆえに愛されています。(ゆる)されています。

神が定められたキリストの十字架

マタイの福音書26章14-25節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月12日

<聖書>

そのとき、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司(さいし)(ちょう)たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨(ぎんか)三十枚を彼に支払(しはら)った。そのときから、彼はイエスを()(わた)機会(きかい)をねらっていた。さて、(たね)なしパンの(いわ)いの第一日に、弟子(でし)たちがイエスのところに来て言った。「(すぎ)(こし)の食事をなさるのに、私たちはどこで用意(ようい)をしましょうか。」イエスは言われた。「(みやこ)に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子(でし)たちといっしょに、あなたのところで(すぎ)(こし)を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」そこで、弟子(でし)たちはイエスに言いつけられたとおりにして、(すぎ)(こし)の食事の用意(ようい)をした。さて、夕方になって、イエスは十二(じゅうに)弟子(でし)といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに()げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切(うらぎ)ります。」すると、弟子(でし)たちは非常(ひじょう)に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに(はち)に手を(ひた)した者が、わたしを裏切(うらぎ)るのです。(たし)かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、()って行きます。しかし、人の子を裏切(うらぎ)るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切(うらぎ)ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

(マタイの福音書ふくいんしょ26章14-25節)

<説教>

ユダヤの最大の(まつ)り、(すぎ)(こし)しが近づいています。

祭司(さいし)長老(ちょうろう)たちは、イエスをだまして(とら)えて死刑(しけい)にする陰謀(いんぼう)(くわだ)てますが、(まつ)りの間は民衆(みんしゅう)(さわ)ぎを(おそ)れていました。イエスの十字架(じゅうじか)背後(はいご)には人々のねたみがありました。

イエスの12弟子(でし)のひとりイスカリオテのユダは祭司(さいし)(ちょう)銀貨(ぎんか)30枚でイエスを売り(わた)します。彼にサタンが入ったとありますから、イエスの十字架(じゅうじか)の出来事の背後(はいご)にはサタン(悪魔(あくま))の働きがありました。

ユダの裏切(うらぎ)りによって、祭司(さいし)長老(ちょうろう)たちの思惑(おもわく)とおりにいかず、イエスご自身(じしん)予告(よこく)(どお)り、(すぎ)(こし)しの(まつ)りにイエスは(とら)えられ、十字架(じゅうじか)(わた)されました。ユダ自身(じしん)もイエスが死ぬとは考えていなかったでしょう。

では、十字架(じゅうじか)の出来事は偶然(ぐうぜん)おこったことなのでしょうか。

いいえ、十字架(じゅうじか)の出来事は、イエスが主権的(しゅけんてき)に、イエスが十字架(じゅうじか)の道を(えら)()られました。聖書(せいしょ)預言(よげん)成就(じょうじゅ)するためでした。長いイスラエルの歴史(れきし)を通して、神は聖書(せいしょ)にはっきりと(さだ)めておられました。

ユダヤの歴史(れきし)で最も大きな出来事は、(しゅつ)エジプトと言われる、奴隷(どれい)からの解放(かいほう)新天地(しんてんち)約束(やくそく)でした。その救いは、小羊(こひつじ)犠牲(ぎせい)()による、(ほろ)びのわざわいからの(すぎ)(こし)し(救い)でした。

この(すぎ)(こし)しの犠牲(ぎせい)()(ひつじ)として、イエスは十字架(じゅうじか)で死なれました。

最後(さいご)晩餐(ばんさん)は、最期(さいご)(すぎ)(こし)しの食事でもありました。また、最初の聖餐式(せいさんしき)でした。

教会(きょうかい)で、今もこの聖餐式(せいさんしき)が守られ、2000年前の出来事であったイエスの十字架(じゅうじか)(つみ)のあがないが忘れられたことは一度もありません。

あなたもイエスを信じるならば、(すぎ)(こし)し(救い)があり、出エジプト(解放(かいほう))が起こります。あなたの(つみ)(ゆる)され、まことの自由が(あた)えられ、あなたの人生は神の御国(みくに)に入ります。

まことの救い、まことの解放(かいほう)が神の定められた十字架(じゅうじか)につけられたイエスにあります。

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを()り、祝福(しゅくふく)して(のち)、これを()き、弟子(でし)たちに(あた)えて言われた。
()って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また(はい)()り、感謝(かんしゃ)をささげて(のち)、こう言って彼らにお(あた)えになった。
「みな、この(はい)から()みなさい。

これは、わたしの契約(けいやく)の血です。(つみ)(ゆる)すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国(みくに)で、あなたがたと新しく()むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で(つく)った物を()むことはありません。」(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章26-29節)

愛に生きる

マタイの福音書26章6-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月5日

<聖書>

さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに(おか)された人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価(こうか)香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持ってみもとに来て、食卓(しょくたく)()いておられたイエスの(かしら)香油(こうゆ)を注いだ。弟子(でし)たちはこれを見て、憤慨(ふんがい)して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油(こうゆ)なら、高く売れて、(まず)しい人たちに(ほどこ)しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を(こま)らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。(まず)しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油(こうゆ)をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬(まいそう)用意(ようい)をしてくれたのです。まことに、あなたがたに()げます。世界中(せかいじゅう)のどこででも、この福音(ふくいん)()(つた)えられる(ところ)なら、この人のした(こと)(かた)られて、この人の記念(きねん)となるでしょう。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章6-13節)

<説教>

イエスの十字架(じゅうじか)の時が近づいていました。弟子(でし)たちは、イエスが間もなく死ぬという実感(じっかん)緊張感(きんちょうかん)もありませんでした。しかし、ある女はイエスと過ごす機会(きかい)はもうこれが最後(さいご)かも知れないと感じました。

彼女は、自分の持ち物の中で一番高価(こうか)なもの、女性にとって大切な香油(こうゆ)をイエスに()しみなく(ささ)げました。それが、彼女が大切な愛するイエスにできる最高のことでした。彼女はイエスに愛と信仰(しんこう)を表わしたのです。

愛とは愛することと愛されることによって完成します。愛されることだけを願う人生は干からびた人生です。あなたが誰かに愛を与えるとき、人生は豊かな愛と喜びの素晴らしいものとなるでしょう。

愛を与えるとは、あなたの大切なもの与えることです。一緒に時間を過ごすこと、聞いて理解してあげること、手助けする事。また、ゆるしを与える事、信用を与える事です。あなたの心の中でわかること、あなたが願うことを、他の誰かに、あなたから与えるのです。

あなたの笑顔(えがお)は素晴らしいです。微笑(ほほえ)みながら(やさ)しい言葉をかけてあげてください。その人はきっと(はげ)まされ、勇気(ゆうき)を与えられるでしょう。

人生には一回きりしかない機会(きかい)があります。その機会(きかい)(のが)せば、もう同じ場合、同じ人、同じ時、同じ感動(かんどう)は再び(もど)ってきません。多くの人は、よいことをする機会(きかい)を失ったために、人生を悲劇(ひげき)に終わらせているのです。

しかし、イエスを信じる者は、(つみ)(ゆる)されて、自分のかたくなさや自我、プライドから解放(かいほう)されて、心から素直に生きる者に変えられます。何度も失敗しながらです。イエスはあなたを絶対あきらめません。

イエスの愛に(ゆる)され、感動(かんどう)して生きる者は、愛だけがすべてであり、愛は無限であることを知るのです。弱かろうが、ちっぽけな存在であろうが、誰もが愛を与えることができます。イエスと共に生きる者はその素晴らしさを知り、体験していくのです。イエスに出会うなら、あなたはいかなるものも包み込み受け止める愛を、無尽蔵(むじんぞう)に与えることができます。あなたの愛はいつまでも残ります。